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探究芸術と共感芸術 1/4 
第一章 探求芸術と共感芸術

【探求芸術と共感芸術】
 一般に芸術作品またはその鑑賞態度をそろそろ分類すべきではなかろうか。
先にざっくり記しておく。
探究芸術=象徴詩、クラシック音楽、ルネッサンス絵画、古典文学
共感芸術=ミステリー小説、俳句、サブカルチャー、映画、ジャズ

 すべての芸術作品とその鑑賞の姿勢は、この二つの曲の間のどこかにある。
たとえば、小説なら、ミステリー小説は共感芸術に近い。一方、今はそれほど読まれていない明治大正の純文学なら探究芸術よりかもしれない。

【探求芸術】
 かつての欧米文化を中心に、絵画ではルネッサンス以後印象派頃までの長い期間、音楽ではベートーヴェン登場頃までに、確立した芸術作品への視点として確立したもの。大衆的というよりは数少ない天才的才能を持つ作者がその人生の中で掘り下げて創作したもの。同時代の一般大衆にはわかりにくく後世になってから評価されることも多い。(作者がどのような意図を持っていたかは直接関係ない。)欧米でのこの視点は、音楽において「コンサートホール」絵画において「額縁」の概念を生んだ。作品は日常生活から切り取られ、「芸術」という形式を意識的に与えられた。強い形式への意識に守られており、作品と鑑賞者の距離感は、ある程度意識され、それゆえ、鑑賞者は周囲の現実や日常の感情から入るというよりも、作品に集中しその外部から隔離された世界に没入する性質が強い。
 人は他分野を学ぶことによって、自分が感じることの可能性を推察しなくてはいけない。探究芸術への姿勢はこうした精神である。そしてそれが人類を正しい方向に導くという点で、芸術の存在意義のひとつとなっている。

【説明がないとわからない芸術作品】
 「ピカソは説明がないとわからないのでは?」という意見がある。これは一種の探究芸術批判である。この質問者の場合はおそらく「日本にはアニメのような強力な共感芸術形態があるのだから、現在既に直感的には形骸化されたこうした「名作」を重視する必要はないのでは」という視点である。しかし、考えてみてほしいのだが、ピカソの絵画の説明を聞けば周辺情報が増え理解に近づくように感じられるかもしれないが、もとより芸術作品は説明を聞いて理解できるものではない。あくまで手がかりである。つまり、この質問者は、芸術作品が解説または理論的解釈によって、理解できるものだという前提に立っているという点で、本当の芸術体験は自分には今までにないと自己暴露しているようなものなのである。おそらくこの人にも、アニメ作品に感動し分析する瞬間はあるだろう。しかし、それ自体は、他の媒体、数字や言語による理論構築に頼って鑑賞しているという点で、探究芸術を体験したことがないということになる。たとえば「アヴェ・マリア」の単旋律の音楽を言葉で解説できるだろうか?シューベルトの伝記を読めば親しみは増すであろうが、それは説明にはならない。つまり、「ピカソは説明でわかる」という発想自体が芸術とは無縁の立場なのである。
 このような主張は、このような立場が、人間の可能性の未知の側面に蓋をして、自分達の思考媒体の枠の中でしか物事を許容しない姿勢にすぎないということになる。このような立場の人は自分が柔軟な思考の持ち主だと考えているかもしれないが、実は学校や社会で認められていることしか許容しないカチンカチンの頭脳の持ち主である。
 人は他分野を学ぶことによって、自分の感じることの可能性を推察しなくてはいけない。たとえば、マンガ作品のディテールをどんなに深く読み込んでも、一度距離を取って俯瞰し言語意識によって分析できないものを把握し直さない限りはそれは、ときには単なる「興奮」をも含んだ、あくまで共感芸術的姿勢である。カタルシスは得られるだろう。しかし、地の地平線を切り開くことはない。
 誤解ないように言っておくと、共感芸術が劣ると言うのではない。探求芸術作品と共感芸術作品はそれぞれに同等の価値があり、また、探求芸術への感動体験と共感芸術への感動体験も同様に存在する。

【共感芸術】
 大衆芸術、サブカルチャーなども含まれる場合があり、日本文化における、鑑賞者たち全員のコンセンサスがなんらかの形で得られる形態。(「みんなが同じように理解し感じ方を共有できる」と錯覚できるもの。)極端な例では、あいだみつを作品や俵万智作品などがわかりやすい。(日本では昭和初期に話題となった「第二芸術論」などもこれを扱っている)。一般の大衆娯楽から始まることが多いかもしれないが、共感芸術が必ずしも芸術作品として質が低いわけではない。元来、共感芸術の質が上がるためには、一国民・民族の高い意識が必要であり、それは日本でなければ難しかったという側面もある。世界最古の恋愛小説は紫式部の『源氏物語』だが、ダンテの『神曲』の300年も前に書かれており、しかも『神曲』以上に本物の小説であった。さらに、それが女性によって独自の大和言葉で書かれていて漢語がほとんどない。これらの特徴は、平安時代の貴族社会が文化的に成熟し、こうした作品を共感芸術として受け入れる土壌ができあがっていたことが大きい。共感芸術とは、大衆芸術とはイコールではない。鑑賞者の大半が、作品を作っている側も鑑賞している側も高いレベルでコンセンサスを得ていること、つまり「みな同じ人間」と思っている状況が前提である。この非常に高い人間平等意識(共通の文化的教養)があって共感芸術は高い次元で成立する。
 共感芸術はその作品のみならず、鑑賞者の存在に重きがおかれる。それは表現者に対する心からのリスペクトであり、その態度は人間に限らず科学的分野にも普遍的精神価値を見いだそうとする、真の文化的価値観を生み出す。

(続く)

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