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探究芸術と共感芸術2/4 
【差別と共感芸術】
 日本では、子供向けのマンガ、そしてアニメーションが世界を席巻している。どうしてこのようなことが日本人しか成しえていないのか。それは前述のような「みな同じ人間」的そして単一民族的意識も根拠のひとつであるにちがいない。
 「前世紀からアメリカには黒人の歌手はいたではないか」といった意見があるが、それは他国の差別の構造を知らない者の意見である。アメリカの黒人ジャズドラマー、アート・ブレイキーが日本に来たとき、彼とまったく差別意識なく写真に収まろうとした日本のファンたちに感動し、親日家になり日本人女性と結婚したことはよく知られるところである。つまり、他国ではアーチストが差別されリスペクトされないということは当たり前にあるのである。その意味で、ちょうど中世の宮廷音楽家の身分が低かったように、有色人音楽家達は一種の猿回しのように扱われていた側面もあったのだ。
 マンガ作品でしばしば黒い肌で描かれたキャラクターの表出やスカートめくりの場面や過激な描写が、昭和の時代から当たり前のように出ていた。マンガはそれによって幅広い表現形式を得ることができた。大人の漫画家たちは子供たちと感情や感覚を共有することによって、子供たちに人気のある作品を生み出したのであり、子供たちも大人の漫画家たちに共感と敬意を抱いていた。それは日本の平和的な単一民族的意識が生み出したものである。差別意識ではない。
 複数の民族や人種が混在する環境の方が差別を誘発しやすいというのは、人間の皮肉な特性であるが、日本における高純度の共感芸術的姿勢の達成は、日本が島国であったことやその他民族的文化的に比較的統一されていたことなども、重要な要素となっている。とはいえ、ほぼ同様の条件を備えていたイギリスやアイルランドでどうしてそれが起きていないのかと考えてゆくと、これは決して単純な地理=文化論では明らかにできないことがわかる。

【芸術と哲学の今日】
 芸術に対する欧米文化の最大の貢献は、コンサートホールと額縁を発明したことだと私は考えている。これによって作品は現実から切り離され、たとえば17世紀以後の宮廷音楽家たちなら、徐々にパトロンの御用達の地位から逃れ独立できる素地ができた。こうして芸術作品の独立性は認められ、作品内部に過度に干渉される勢力は弱められたはずだった。
 その後20世紀になると、その前半は科学の進歩の圧倒的な説得力に屈し、哲学者たちは本来果たすべき規範作りを怠ってきた。また、後半から今世紀に至っては、その多くの人々が過去の哲学書のテキスト分析と、社会科学的立場との融合によって、生き残りをはかろうとしているといっても過言ではない。私たちは、強力な主観というものを重んじずに来た。それが現状である。しかし、その間も、芸術自体は大いに発達した。まさに現代アート、映画、ポピュラー音楽の充実、サブカルチャーの商業的繁栄などである。それらはアカデミー賞やロックの殿堂など様々な意匠をもって評価されている。
 それでもなお、現代ほど、日本のそして世界のノームとなるような哲学が欠乏し、それが望まれている時代はないのではないだろうか。それは「感性」に基づく哲学であり、端的に言えば芸術哲学である。「感性」という視点はどのように論じられるべきか。本来、「科学」や「数字」はあくまでモノを分析する学問であり、「言葉」や「社会科学」の分野は人間と人間の間のコンセンサスの問題の一種の域を出ない。それに対し「芸術」や「感性」とは、まだ、数字や言葉以外の価値体系が、私たち人間の認識と判断の背後に残されていることを雄弁に暗示している。そしてこれこそが、もっと早くから迷える人類の進むべき方向性を指し示すべきだった。

【芸術作品とポリコレ】
 しかしながら、21世紀に至り、社会がグローバリスト達の影響を受けると、芸術は思わぬ悪影響を被ることになる。それが現在のポリティカル・コレクトネスである。これによってディズニーのティンカーベルは黒人が演じ、スーパーマンが男性の恋人とキスをするようになった。外部の思想を作品内に無理矢理押し込むことで作品の芸術性が破壊された。こうした作品群は、おそらくは(そして願わくば)、21世紀初頭の「文化的怪異」として時代の波の中で葬り去られることであろう。しかし、同時代に多感な幼少期を過ごしている子供達・若者達にしてみればいい迷惑である。
 政治的社会的な価値観を芸術作品に無理矢理にねじ込むことは、文化の破壊行為である。それは芸術の進化や発達ではない。
 22世紀の芸術解説者はしたり顔で「21世紀にはこんな風潮があったんですよ」と語り、それを聞いている人々は「彼の解説のおかげで芸術がわかった」と喜ぶのだろうか。

【アートという用語】
 また、現代日本では、元々同じ言葉を、日本語において「芸術」と「アート」と、用語を使い分けることによって、わからないままに利用している語法がはびこっているのかもしれない。
 前者は本来純粋に概念に対して用いられていたため、現在具体的に作品に適用される場合デモンストレーションでも一定の抽象的な本来の意味を維持している。(もっとも、たとえば、サッカー選手について「彼のシュートは芸術だ」と言った言い方はされるにしても、むしろそれは形容詞として、芸術作品へのリスペクトの上に成り立っている。この形容は「アート」という言葉でされることはまずない。)
 一方、「アート」は、主に同時代の文化的活動や作品に対して、「これも『芸術』としての立場や原理や価値として評価してもいいのではないか」という意味で使われる。この結果、本来の「芸術」作品の価値に重きをおかない価値観の人間が、芸術的でないものに芸術と同等の評価を与えようとして使うということになる。この時点で、発言者は自らの認識と資質を暴露していることになる。本当に芸術を愛する人間であれば「これは芸術だ」と言えばすむ話である。が、ここであえて「アート」とするのは、主張する側が薄々それが芸術とは一線を画すると気がついているからであり、自ら自己の無用な劣等感を露にしていることにもなりかねない。その意味で日本での「アート」という表現というか主張は、とても評価できるものではない。芸術にやれることがなくなったので、アートという挑戦のような態度を取ることで新しいもの産み出そうとすることにも限界があるだろう。この現代日本人が「アート」という言葉に翻弄されるきっかけになったのは、サルバトール・ダリという道化の存在である。私はダリを天才扱いする人の判断を信じない。それは芸術作品を理解できない人の立場にみえる。
 そもそも日本文化が本来同じ"art "という言葉を「芸術」と「アート」という言い方で分割したこと自体が苦渋の選択だったのではないか。私は今のところ、日本人の90%は英語が活用できない方がいいと考えている。わざわざ英語という、より粗い表現単位をいれることで、日本文化を破壊する必要はない。言語はもっとも強力な文化の守護神であり、日本人においてはそれは日本語に他ならない。これを捨てる必要はない。
 ここには先述の芸術作品にどこまで現実を混入して許されるかという問題、ポリコレの問題も残されている。最近では愛知トリエンナーレの問題があった。「アートだから許される」という幼稚な理屈にさすがに一般の日本人も辟易した。その意味でもやはり、日本人の90%は英語が活用できない方がいいのである。一つの国家で二つの別系統の言語が繁栄することはない。私たちが「芸術」と「アート」という言葉を捨て"art "という言葉で一括しさらにそれを漫画も作れない民族と共有することになると、日本は、世界は、どこまで劣化することになるのだろう。



(続く)

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