【ジブリ作品の偉大さ】
ジブリ作品を代表とする宮崎駿監督作品は、その高品質で世界から愛され、日本の誇りでもある。しかし、中でも今一度注目して頂きたいのは宮崎監督の強烈な作品への形式感である。宮崎氏は、知る限りでは戦後の反原発主義者であり、その思想には批判的な人は多い。原発の良し悪しの問題ではなく、この世代の人々に特有の非合理的なまでの反体制的態度が、垣間見られるからである。しかし、宮崎氏が偉大であったのは、そのような主張を持ちながら、自身の映像作品にはまったく反映させなかったことである。(あえてあげるなら1995年CHAGE and ASKAのプロモーションビデオ「On Your Mark」に垣間見られるが、これも現在ではマニアの楽しい分析ネタとなっている。)「風の谷のナウシカ」であってもたしかに環境破壊を訴える映画であることには違いないかもしれない。しかし、彼の創作者としての美意識・良心には一点の曇りもない。その時代や現実から隔離させた晴朗さが私の胸を打つのである。
このように考えてゆくと、ロック音楽においてたとえばエリック・クラプトンの人気作品「ティアーズ・イン・ヘヴン」が彼の亡き息子を悼む歌だとかという分析が非常に危ういものを含んでいるということに気がつくべきであろう。
【第9交響曲】
ベートーヴェン交響曲第9番のテーマは、「探求芸術から共感芸術へ」である。
私はベートーヴェンの最後の交響曲第9番「合唱」は大好きである。特に好きなのは第一楽章で、晩年のベートーヴェンのたどり着いたベートーヴェンらしさである。それはベートーヴェンの探究芸術的な側面の頂点のひとつである。その一方で一般には第4楽章が人気である。年末になると、ときにはこの楽章だけを取り上げて、大衆参加の合唱コンサートが催される。これは人々の「感情の器」になりやすく、その意味で、共感芸術であるからだ。年末に第9を歌うという風習に、欧米の人々は驚くようだが、日本人はこうして探究芸術としてのクラシック作品を、最高度のリスペクトを込めて、共感芸術化したのである。
(また、ここに芸術史におけるパラドックスが起きたということも付記しておきたい。というのも、一般に「ベートーヴェンの第9によってロマン派が開かれた」という言い方がされるが実際には、第9によって探究芸術から共感芸術への変容がなぞらえられたことで、音楽史は、宮廷音楽のような共感芸術から、ロマン派の個々の芸術家による探究芸術への道を歩んでいったのである。すなわち、いずれにしても健全だった十九世紀では、個々の作品の芸術的深化は進んだのである。しかし、
その音楽史的な流れとは関係なく、今も第9は演奏される度に、探究芸術体験を共感芸術体験へと導く働きをしている。)
【ビートルズの業績】
ベートーヴェンの第9の事例と対照的な現象が、ビートルズのスタジオ・ミュージシャン化である。ビートルズは当時全世界で空前絶後の人気を得て、ビルボード全米第1位から第5位までを独占した。しかし、その7枚目のアルバム『リボルバー』頃から一切のコンサート活動を意識的にやめ、実験的で自己探究型の作品群を生み出すことになる。これは先のベートーヴェンの場合と対照的な現象で、まさに「共感芸術から探求芸術へ」のストレートな活動であった。第9の場合も同様だがこれらはベートーヴェンやビートルズの高い意識によってのみ達成されたものではない。第9の場合は現代に至るまでの日本の欧米文化吸収のわかりやすい例であり、ビートルズの場合はその後も「自己の芸術を極める」という姿勢を取る若いミュージシャンは多いが、彼らは必ずしもこれらにあてはまっていない。ビートルズは、それまで大衆音楽の位置に過ぎなかったロック音楽を普遍的な芸術の位置にまで引き上げた点でもまさに革命であった。
一方、現在のロック・コンサートは一般にどうであろう。大抵の場合、コンサートホールの音は大きすぎ響きすぎて、決して冷静な鑑賞に耐えるものではないという向きもあろう。ファイルやCDで聴いたものをより共感芸術的に確認するために集うのである。
【「自己の音楽性を追求する」アーチスト】
このような意識の流れを経て、現在では多くのミュージシャンが「自己の音楽性を追求する」という姿勢を取っている。その人たちは自分の世界こだわり豪華な衣装や音楽的仕掛けをもってステージ上などで「私の芸術世界」を再現する。ファンは、それを「芸術を再現するために努力をしている教祖様」であるかのように心酔している。しかし、私はこうした表現は探究芸術の殻を被った共感芸術にすぎないと感じられる。やたらと熱唱する歌手も同様である。好きであれば構わないのだが、そこに「自己追求」という薄っぺらな主題が盛り込まれると鼻白むのだ。その追求は誰のため、何のためなのだろうか。それはそんなにカッコいいと感じられるのだろうか。
情熱的な歌唱で人を巻き込む歌手は、共感芸術としての魅力を持つ。それは一期一会の貴重な体験かもしれない。それは共感芸術の一つのかたちであるが、しかし、それは作品に集中して鑑賞者が芸術を探究しているわけではない。アーチストが自己の探究的姿勢を打ち出すのは安っぽい自己宣伝にすぎない。ベートーヴェンの音楽でも彼の自己追求の姿に価値があるわけではない。それは伝記的次元の話である。時には彼の自己探究的なシリアスさを鑑賞者が自己の境遇となぞらえることはあるかもしれない。それは第五交響曲などにおいて多発する。しかし、それらもすべて、まずは鑑賞者が深くベートーヴェンの作品自体と対峙しその内面世界を自分なりに追い求めるという行為があってこそである。実質のない自己探求などに付き合う人はいない。しかし、現代日本では、共感芸術文化ゆえに、実質よりも自己探究の姿自体に酔いしれている人もいるようである。それは一種の讃美歌のようである。努力と友情を歌詞にすれば売れる歌も同様かもしれない。であれば、「はしれ、ちょうとっきゅう」といった童謡の方がはるかに純粋な探究音楽だということになる。
(続く)