【映画評論家の良心】
良心的な、分析力のある映画評論家の多くが共通して言う言い方がある。それは「映画は最高の娯楽作品だ」という言い方である。これは本当に対象の本質を捉えた謙虚かつ聡明な発言である。映画は、現実自体を素材に、視覚と聴覚の両方を媒体とする、かなり具象的な表現作品形態である。その感動が芸術であるかということは個々の体験によるのだが、映画評論家が「映画は芸術だ」と乱暴な言い方をしないところは、本当に本質を捉えているのではないか。
また、監督やその他の映画製作者は、「音楽にはかなわない」という言い方をする。それは聴覚という単一の媒体しか使わない表現形態が本質的に持つ抽象性こそが、その形式と象徴の力によって莫大な情報量をもたらす、その力になかなか対抗はできないからである。
映画の素晴らしさは具体的であるがゆえに、有機的である。時代や鑑賞者個人の体験や成長などとも連関しやすい。これらの価値を本当に見据えたとき、映画評論家は「最高の娯楽作品だ」という言葉になるのである。
【歌がうまいということ】
私はビートルズのコピー・バンドは日本人が一番だと思っている。日本人はビートルズのように白人にもなれないし、英語の発音もままならないかもしれない。しかし、それでもポール・マッカートニーは自分の誕生日に日本人のビートルズ・コピー・バンド、パロッツを呼んだ。
コピー・バンドは単に物真似をするだけなら日本人は不利だろう。しかし、私たちもポールも、「ね、似てるでしょ」と思いたいわけではない。ビートルズが目指していた音楽を再現してほしいのだ。それは、当時のビートルズ本人でさえもなにか自分達の演奏と歌声の先にあるなにかを目指していたのであり、自分達が単にアイドル的に自己表現していたわけではない。それはアイドルであって芸術家の姿勢ではないからだ。日本人演奏家は基本的にこの姿勢を本能的にとる。つまり芸術作品に対するリスペクトが先行する。毎月のようにアップされるインターネット上のビートルズのカバー演奏の動画をチェックする度に日本人以外の多くの「プロ・ビートルズ・カバー・バンド」がステージ上でいかにいい加減な演奏をしているかには恐れ入る。それが英米人だったりするとさらに、見かけを似せようとしすぎて、ある種の照れが加わる。私たちはビートルズ音楽を、生の機材で再体験をしたいのであって、物真似演芸を見たいのではない。体験したいビートルズと同じ視線でビートルズの追い求めていた音を真摯に追うこと、これしか真の芸術再現に近づく方法はない。
先日、テレビでアマチュアによるカラオケ選手権大会を見た。数時間にわたる長大なものだったが、たまたま、感動させるものが何もなかった。(感動させるものがある回もちろんあるだろう。)彼らは大変歌がうまく人間としても魅力的にみえた。しかし、彼らは、歌っている歌手に似せようとしているのであって、その歌手の目指そうとしているものを共に追っているわけではない。であるから、どこまでいっても魅力的ではないのだ。
ジョン・レノンは単にビブラート等の技術でいえば一番うまい歌手ではないかもしれない。しかし、音楽家の本能として自分の狙う音楽性をはずすことはない。その精度とダイナミズムにおいて上回る歌手は滅多にいない。音程が正確かビブラートが利いているかといった基準だけでは、物真似とカラオケ以上にはならないことが多いのである。
【21世紀日本文化の役割】
2024年初頭、山崎貴監督による映画「ゴジラ-1」が世界中で空前のヒットとなった。これは本来なら1954年の初代ゴジラの発表の時点で世界が理解しなければいけなかったものを、その後の日本の映画文化の下降も含め、理解ができるようになるまでこれだけ時間がかかったという見方もできる。何はともあれ私は本作品を劇場でみてようやく世界がわかる時が来たと予感した。各国の国民が、戦争のPTSD を理解できるようになりそこに共感できるようになったということも大きいが、それ以上に「戦後の状況を扱いながらそれをどのような現実や一方的価値観に着地させなかった」ということが重要なのである。世界はそれによって、共感芸術の究極の姿をみたのであった。
たしかに、既にアニメ作品でもそのような表現を日本は発信し続けていた。しかし、それはスイスにおける「アルプスの少女ハイジ」などというように、鑑賞者はまさか日本人が製作しているとは思っていなかった。(その水準の認識である。)そしてディズニーは「ジャングル大帝」をパクり「ライオンキング」を作って平気であった。(「ゴジラ-1」でもそれができるのだろうか?作品の真の精神性をパクるというのはどうやるのだろうか。)
音楽において「ウィー・アー・ザ・ワールド」のように世界を繋ぐのは容易であるように見えた。しかしそれは現実の効力としてどれだけのものだっただろうか。それは探究芸術としての音楽が各個人に強いる集中力に万人が必ずしも対応できず、また、共感芸術としては抽象的体験にとどまり、人の認識を変えるところまではなかなか行きにくいからである。共感芸術としての映画の場合そのような問題は少ない。その代わりに、具体性ゆえに鑑賞者の立ち位置や環境の問題が生じがちであった。少なくとも日本文化が目指すところとしては「ゴジラ-1」でこの問題は払拭されている。共感するということはユニバーサルなものであるはずだという夢が一つかなったのである。
では、現実にこれからどうなるのだろうか。かつて世界ではじめて人種差別撤廃条約を提案したのは日本だ。それを潰したのは英米だった。では「ゴジラ-1」における再生の物語には、どのような逆風が待ち受けているのだろうか。しかし、日本は無邪気にこれからもこうした作品を作り続けるだろう。そしてそれは世界を変えてゆくだろう。世界はそれに耐えられるだろうか。耐えて変革していただかなくては困るのだが、それによって人類は多少はましなステージに上がるだろう。そのときには、BLMのような力による訴えや、「世界に平和を」といったお題目がなされずとも、一歩前進できるのではないだろうか。