【古文漢文歴史不要論について】
古文漢文不要論は巷でも多く語られているので、ここでは私たちにとっての結論的な部分に至るアウトラインを掬いたい。私の立場としてはあとで述べる「学校は役に立たないことを勉強するところだ」というものだ。
古文漢文は実社会における重要度が低いから時間数を減らすか無くした方が良いという主張について、一つには、役に立つかどうかは問題ではないということと、もう一つには、実際におおいに役に立つということ、この二つの視点がある。
前者についての比較的発達した論は、「役に立つかどうかは問題にならない」そして「役に立つことを主張すると、要不要論に巻き込まれるから話さない方が良い」というものである。そしてそれは「学習態度を作るから」という視点で、こうした学習を肯定している。
後者はさらにあと一歩踏み込み、「役に立たない勉強というものの本質は何か」ということがある。前者における「学問の内容よりも学習の態度を作るから」というのは、一つの堅実な答えではある。しかし一方で、「要不要論を相手にしない」態度というのは実は彼らをまだ間接的に相手にしていることになるのではないか。私たちは第三者にも誠実な答えを出さなければならない。なぜならば、もし本当にそれが「学習態度を作るから」というだけであれば、その内容は何でも構わないということになりかねないからである。しかし実際には学ばれる内容は、古文漢文、歴史、芸術、その他の「真実と思われるもの」でなくてはいけない。私はその点で「学習態度を作るから」というだけでは、あとの論が苦しくなり、「教育は集団としての国家のためのものでもある」といった論に逃げざるを得なくなると思う。このような論客の問題点は、人間にとっての誠実な論理展開はできて人間の「学ぶ態度」の重要性はわかっていても、「では、そもそも人間にとって真実とはなにか」という問題に向き合っていないことになることだ。
【古文漢文の必要性は「国作りのため」であるのか】
「古文漢文教育は、憲法に基づく、集団としての国家のためのものでもあり、国作りのためのものでもある」という意見への付加的批判をしておきたい。これについては、ネット上で主張されている若い方がいたので、それを全面的に批判するのではなくあくまで付け加えて言っておきたいという立場から、一応解説しておくだけで、自明の理だと思う方は読み飛ばしてほしい。
教育はたしかに国家主導で推進されるシステムだが、それを国家や憲法の示唆の結果、現在のように行われているとするのは、原因と理由、結果と意義の関係を正確にとらえていないと考えられる。抽象的な意味での「国家」という概念による主導なのだということは、たしかに「理由」にはなるが、現状に対する「原因」とは言いがたい。もし現状に対する原因であるなら、多くの国民が直感的に「古文漢文は必要なのでは?」と考えていることへの説明がつかない。その時に「国家と国民はそのような形で契約しているから」というのは、たしかに国民が許容しているからだと言いやすいが、これは「国民の教育の享受」という概念とは甚だ相性が悪い。この論は国家が主導しているのだから、日本人が従っているのだというイメージになりがちである。論者はそのような意味で言っているのでははない。が、実際には、私たち国民の側が「なぜ?」と問いかけるときには、良い答えではない。
実際には国家の思想とは関係ないところで私たち一人一人の多くが古文漢文を必要だと感じているから、現状多くの人々が学校で仮に嫌々ながらだったとしても学んでいるという事実がある。国家のもくろみがひとつの「理由」だとしても専制国家でないかぎり、私たち全員が意識して「理由」として納得できるものではない。その意味では結果に対する一種の「原因」にすぎなくなる。そして同時にこれは決定的「原因」にも「結果」にもなりえない。なぜなら私たちがここで問いかけている「なぜ古文漢文が必要なのか」という問いは、より明晰な、人間の本質に根差した「理由」を必要としているからだ。つまり私たちは今「古文漢文を勉強させられている」という結果を認識しているが、それを「意義」としてもう一度とらえ直そうとしているのだ。その意味で「国作りに役立つから」という意見は答えにならない。
民主主義国家であれば私たちには、国の教育方針に従う義務とそれに疑問を持つ権利がある。であるから、この元々の意見は、この二者の間の「不思議」に答えていない。すべての学習者はすでに古文漢文の学習のシステムには潜在的に納得し選択している。その上で問いかけているのだ。多くの古文漢文教育はに否定的な人々も「たぶん古文漢文はなくならないだろう」という推測ではほぼ一致している。「どうせ変わらないだろうな」という意見を持っている。その推測が当たるかどうかは別にして、私たちは自分たちが「頭のどこかで古文漢文が必要だと感じているから勉強を強いられている」という点では合意を得ているのだ。私たちはその上で、この「義務教育」というものの中に潜んでいる「不思議」を解読しようとしているだけである。だから、「古文漢文は必要だ」という意見を持っている人が「国策として国の歴史や文化への意識を持たせて国作りをするためだ」と回答することは、不十分すぎるのだ。
また、そうであれば、お隣の間違った歴史を教えている自称「民主主義国家」の人々が、論理的に自己矛盾を起こしていることに薄々気がついているという事実に、説明がつかない。自分達の種族に誇りをもつということは教養である前に本能である。それを刺激することが学問だとは言えない。彼らが純粋に国家に洗脳され、真実を見ないのなら、一部の苦しい宗教のように、自分達のドグマの中に閉じ籠り、安住できるはずではないか。それはたしかに「国作りのため」に行われたはずである。しかし、人間の知性はそこに疑問をもつ。それが日本人の古文漢文教育への「なぜ?」なのである。
【真実は勝つ】
また、私たちの知的常識の中ではまたは民主主義においては「真実は勝つ」でなければいけない。それは甘い理想論ではなく、人間が群れたときの社会学的真理である。たとえば隣国では政府による人民の統括のために、日本を仮想敵国として明らかに歴史と違った教育をしている。その国の学生たちは真面目に勉強しているのだろう。しかし、そのうちに必ずどこかおかしいところがあることに気がつき、自己矛盾に陥り、心理的にも崩壊に至る。これは単に「学ぶ態度」が形成されれば良いということではないことを如実に表している。いくら「これが真実だ」と押し付けても、人はその対象からだけ学ぶのではない。それを学び、学ぶ態度を自分なりに構成し、さらに外部の現実の「外気」と触れるうちに「気がつく」という現象が起きるからだ。そしてそれこそが人間の知性なのである。であるから、義務教育はその時代の最も確からしい「真実」に基づき学習態度を習得することで、できる限り高品質の総合基礎教育を提示しなければならない。義務教育は、学生たちが初めて社会という「外気」に触れるまでに、世界に対する最も真摯で真実を志向する知的態度を備えさせるためのものである。
【ウィキペディアの勝利】
インターネット上の百科事典「ウィキペディア」は成立当時、ほとんどの人が「数年のうちに無責任で私利私欲でコントロールされる落書きのようになるだろう」と考えていた。結果としては、現在までのところ、たしかに多くの瑕疵はあるが、それでも調べものの便利なツールとして生き残っている。
私はこれは人類の知の勝利だと思っている。世の中には善人から悪人まで、そして聖人から心卑しい人までいろいろ蠢いているが、それでも一人一人は大抵の場合自分を基準に生きている、すなわちどんな人も「自分は正義だ」と思って生きているのだ。であるから、内容が事実であるかどうかには個人の認識のレベルでは抗えない。それは人間が自分が見て感じたものを疑えないのと同じように、文字を通して、自分が事実だと思うことを見逃せない本能から来ている。それは実際には卑屈な批判の応戦だったりすることがほとんどかもしれないが、それでもなお、事実から目をそらしているばかりではないのだ。
現在のウィキペディアの姿を見れば良い。それは決して素晴らしいものではないかもしれない。一種の薄汚れた事実記録かもしれない。しかしそれでもなお、それは一定の事実と真実を表示し、現代人の知の姿を体現している。ある意味「ほら、人間の知性はこんなもんだよ」とも言わんばかりに。