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教育論5/8 学校は役に立たないことを勉強するところである 
【湯川秀樹の幼少期】
 ノーベル賞授賞の湯川秀樹はその自伝によると、五つか六つの時祖父から漢籍の素読を強制されたという。四書、五経を意味もわからずに暗唱させられたのだ。もちろん修学前の子供にとって、苦痛以外の何物でもなく、緊張がつづけば、疲労、睡魔におそわれ、辛い時間の中で機械的に祖父の声を追っていただけだったと言っている。しかしそれでも湯川自身はこの素読をむだだとは思っていなかった。意味も分からずにはいっていった漢籍が、大きな収穫をもたらし、その後、大人の書物をよみ出す時に、文字に対する抵抗が全くなかったという。漢字に慣れる。慣れるということは怖ろしいことで、ただ祖父の声につれて復唱するだけで、知らずしらず漢字に親しみ、その後の読書を容易にしてくれたという。
 このように一見科学とはまったく関係のない学習訓練が大きな成果を生んでいる。
 この学習について、直接的には、湯川はのちにも、素粒子理論研究を老荘思想に結びつけ、素粒子世界を、荘子の「混沌寓言 」の「混沌」という状態に結びつけた。
 また、のちの教育研究者たちは、ここから、幼児期の素読の訓練は、吸収力がまったく違う頭をつくりさらに創造力も抜群になるのだと主張している。
 しかし、これらのいずれも、のちに人間が結果から考えたものであり、人間の脳の可能性の一つの具現化されたものに過ぎない。おそらくは、漢籍素読の効用の無数の可能性の表出の一つにすぎないのだ。

【古文漢文・歴史の価値について】
 古文漢文について「当時の人の発音で読んでないではないか」という意見があった。(これもまた有名インフルエンサーの弁であるが、さすがにこの浅薄さには驚いた。)現在の学習者の誰も当時の中国語会話に興味を持ってはいない。古文漢文学習が過去の遺産をいかに自分達の言語や意識で取り込むかという作業であることすら気がつかずに主張している人が今もいるようだ。これは私には大変不思議であった。
 現代の中国の留学生は、日本人が漢文を学んでいると聞いて驚く。それは最初は自分達も捨ててしまいかけている、過去の自国の遺産を隣国の日本人が熱心に学んでいることに対する素朴な驚きなのだが、次に日本の学生が「違うのよ、私たちは中国語は読めないの。ただ日本語で読み直しているだけなの」と謙遜すると、さらに驚くのである。それは日本人が他国の文化をすべて自分達のものとして吸収している姿であるからだ。
 ベタな回答をすれば、古文や漢文は、現代人が遠い昔の人と感情や意見を共有できる、言わば当時の人たちの感じ方をダイレクトに味わえる、貴重なツールである。そして歴史とは、たとえば当時、知力、体力、家柄、運などすべてにおいて最強だった人物でも、失敗したり悪人になったりしてしまう、そんな貴重なサンプルを豊富にみられる知識の源である。さらにそれが日本史であれば、共感の度合いは強まり同じ日本人としての感情的理解は高まる。これこそが知的財産である。その点では、どのようなヴァーチャル・リアリティーの情報よりも貴重である。

【知識詰めこみ教育の貴重さ】
 歴史に関しては、歴史的事件の年を暗記させない傾向にある。文科省の方策がいかにおろかであるか、再認識させられる。幼少期は人間が丸暗記が得意な貴重な時期である。この時期に覚えたものは、それがどのような素材であれ、事実・真実にどこか基づいたものであれば、後の考える核となる。暗記の過程で論理的脈略がないものが特に推奨される。歴史の年号などは特にうってつけである。
 最近歴史的情報が根本から間違っていた、たとえば足利尊氏の風貌は別の人のものだったといった情報が出る。「では、あとで間違っていたとわかるかもしれないものを教えるのは良いのか」という問いもある。しかし、それよりも学習者が学んでいるその時代に最も真実らしいものを事実として習得すること自体に高い価値があるのである。つまり、後に「大人に騙された!」と思わない習得が大切なのである。
 それにそもそも科学も法学も「あとで間違っていることがわかるかもしれないもの」であることに変わりはない。科学は「反証可能性」が一つの定義ではないか。それを「イイクニ作ろう鎌倉幕府というのは間違っていたんだよね。だから歴史など、、、」と言った視点がいかに愚かであるか猛省されたい。もし後で間違っている可能性のあるものを削ってしまったら、すべての人類の知的財産の価値は相対的な天秤の上に乗ることになり、真実としての価値は消える。そして、子供たちに教えることがなくなることにどうして気がつかないのか。
 私たちにとっての「知」とは、その時代にできる限り誠実に追求された事実を学ぶこと、それによってその周辺の文化的状況をも含む、真実への誠実な姿勢を体感すること、そしてさらにそれらから自分にとっての「真理」に近づくこと、である。
 ある人気インフルエンサーが「古文漢文教育を重視する人は馬鹿にみえる」と言っていたが、その形容はそのままご自身の自己紹介になってしまっている。古文漢文を重視しないということは一つの視点として考えて良いし、発言することも良い。しかしそこから一気に相手の知性の否定にまで行ってしまっているところは、まさに古文漢文のような分野を単純に軽視する人の知的態度だということになってしまう。何かを判断するときに、自分の守備範囲以外の分野に対する想像力が欠如し、相手の知性の否定にまでつながる態度、このような人間にならないために、私たちは一見役に立たない分野まで学び、すべての分野への知的姿勢を備えようと試みるのである。(かく言う私も人に対してこのような否定的発言をしかねないので、このインフルエンサー氏と同じ穴の狢かもしれないが。)

【学校はすぐに役に立たないことを勉強するところである】
 日本の教育は役に立たないことばかり勉強させ、その結果、暗い青春を送っているというのが、一般的な日本の学校教育への批判であろう。これらのことについての根本的な理解の間違いは、学校が「すぐに役に立つ」勉強をするところだという短絡思考から来ている。実際には、少なくとも高校までは学校は「すぐに役に立たないこと」を勉強するところである。
 ではなぜすぐに役立つ学習を中心にすべきではないか。役に立つ情報はすぐに古くなるからだ。すぐに役に立つ情報は、現在の現実と大きな「接点」を持っている。いわば科学理論における「実用化」の概念である。その接点は、背後にある思想や論理が現代という現実の中で具現化されたものである。30年前ならワープロ、20年前ならパソコン入力、10年前ならスマホ、現在なら様々なSNS などがそれにあたるのだろうが、これらはすぐに古いメソッドになるのである。
 事実、どうして大人たちは、最新技術に疎くなりがちなのだろうか。彼らにだって若いときがあった。その頃は最新技術を素早く身に付け、意気揚々としていたのである。しかしながらだんだん面倒に感じて若者に頼りたくなる。加齢によって習得機能が落ちたのだろうか。それも多少はあるかもしれない。しかし主因は違う。すぐに役に立つ情報は人間の脳の中ですぐに古くなり、無用なフラグメントとして堆積するからである。あなたは、昔覚えた数字現在有効活用しているだろうか。
たとえば日本のミカンの総収穫量は2013年には約90万トンだったが2022年には約68万トンである。現在もうすぐ30歳になろうとしている人たちにとってはでは90万トンで覚えたはずだ。ではその後毎年これらの数字を勉強し直し刷新し続けているだろうか?そんな人はごく少数である。一度蓄えた情報が毎年変化すれば、それは意味の薄いものとして脳内に沈殿し、言ってみれば「面倒くさいもの(フラグメント)」化するのである。一方、不要論が唱えられる古文漢文の知識はどうであろうか。これらは人一人の知識の中でいつも変わらず、思考単位の一部を構成する。
 幼少期に必要なのは、湯川秀樹にとっての漢文の朗読のように、特定の時期に意味の問題を超越して暗記し、頭の中に堅固な思考単位を作ることである。それは二十代前半までは確実に優先事項である。人は幼いときほど意味を考えずに記憶できる。その頃に人として貴重な思考の単位を蓄えるのである。その貴重な時期に、現実と結び付きの強い、時代の変遷につれて可変度の高い知識を供給するなど、教育の方法として、愚の骨頂である。

【「清き一票」のための「役に立たない知識」】
 私たちが役に立たない知識を学ぶのは、私たちに平等な選挙権を持っているからでもある。選挙権は、権力の打倒のためのものではない。権力打倒は真実を求めるための態度ではなく決着をつけるための最終手段である。選挙権は本来国のために戦った戦士にしか与えられなかった。自分の命をかけて国を守ろうとした人こそが真の愛国者だという考えは現代も間違いではあるまい。しかし私たちが一定の教育を受け、戦争が日常でなくなりつつある今、選挙権は、一人一人の総合的な判断の集積に基づくものになった。一人一人の立場は違う。たとえば医者と配管工では立場は違う。しかし、配管工が配管に都合の良いだけの政治を国家に求めてもらっては困る。総合的な教養があればそれは救われる。たとえば「医者は頭のいい人たちの集まりなのだから正しい総合的な判断ができるだろう」というのも間違いである。自分が知的に自信のない人または考えたくない人が、社会的知的に優位に立つ人に判断を委ねるととんでもないことになる。2023年時点での世界はたしかに、少なくともその5年前よりはずっと酷いことになっている。
 私たちが「すぐに役に立たない学習」を学校でしなければいけないのは、この総合力を持つためである。すなわち、役に立たない学習を放棄することは、いずれ戦争への道となる。放棄するのは自然界の力関係に運命を委ねている野生動物たちだけである。

【役に立たない勉強と競争原理】
 人は勉学においてジレンマに陥ると大抵「こんなものを勉強して何の役に立つんだ」と言う。かつて私も人一倍疑問を持ち、学校教育からドロップアウトしがちな自分を想像した。これは、「すぐに役立たない教育内容」への問題意識と「一律的な競争原理」への疑問が混同されている。あなたはどちらに疑問を持っているのだろうか?
 ここまでお読みいただいたので、おそらくは「すぐに役立たない教育」についての誤解は解けたであろう。それは義務教育の本質である。では問題なのは「一律的な競争原理」の方であろうか。では偏差値をなくせばよいのだろうか。偏差値は、得点の不平等がないように是正するためのものであり、どう見ても学習者にとっては平等で情報量が多いものである。あなたが「自分だけラッキーな抜け駆けをすることができないじゃないか」という考えの持ち主ならまた違ってくるが。
 日本は小さい時から一律的な過酷な受験競争がある数少ない国である。東アジアの国に多いにしても、日本と比較してあまり成功しているようには見えない。一方、受験競争のない国というのは、小学校から高校までのどこかで、知能や学力のテストを行い、その結果によって一方的に進路が決められてしまう。機会の平等はない。であるから、若者たちはのんびりと明るい。ただ、学力を伸ばす努力の方法すら知らされない場合も多い。緊張感の少ないのんびりとした青春を謳歌しているうちに気がつけば自分は成功コースからははずされている。アメリカの田舎のプア・ホワイトの人たちなどはこの境遇が多い。しかも無駄に厄介なことに、アメリカでは日本同様「努力」が尊ばれる。これはあまりよくないコンボである。その結果、アルコール⇒薬物中毒⇒ピストル自殺というコースにまっしぐら、という可能性もある。
 マイケル・サンデルの『実力も運のうち~能力主義は正義か?』によれば、たとえばフランス人の75%が「人生の成功は運だ」と考え、アメリカ人や日本人は75%が「努力だ」と答えるそうである。社会で努力が見合うのは、機会が平等な場合に限る。そのため、「機会の平等」は大変な努力を個人に強いる。そしてそれは個人の心を暗くするのである。理想論としては、人の能力は様々なのだから、各個人が人生のどこかで見切りをつければよい。しかし、事実上のドロップアウトの意識はどうしても劣等感を生むし、先にのべたような、義務教育の構造を知らないと時間を無駄にしたような気分に陥りがちである。繰り返しになるが、理想としては自分で見切りがつけられるとよい。
 現在日本の大学進学率は56%位である。低いと思われるかもしれないが、これは素晴らしい値である。つまり、高校までの学習が充実しているのであれば、大学進学率は低くてもよい。日本人の若者が「学業に見切りをつける」状況が用意されているということだからである。ちなみにアメリカは72%である。高校までにあまり勉強していないからというのもあるが、エリート主導の学歴的ヒエラルキーに取り込まれざるを得ないという側面がより強いのではないか。また、現在フランスでは中卒だとホームレス一択である。大卒でも一年以上ブランクがあるともう雇ってもらえない。日本人の中には一部の外国が自由に人生を選択できるパラダイスだと思っている人もいるが、はたして本当にそうなのであろうか。若者たちが「自由」を選択できるステージはどのくらい用意されているのであろうか。
 

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