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教育論6/8 暗さは知性だが 

【でも、なお日本の若者は暗いではないか】
 ここまででもなお、私たちは疑問をぬぐいされないであろう。なぜなら、それでもなお、暗い学生生活を送ってきた日本人は多くいるし、自殺に追い込まれた人もいる。他の国でも幼少期・若年期の悲惨は同様に見られるが、それを言っては、相対論に逃げることになり、論としては負けである。経験が少ない若者たちに、今生きているということがどれだけ幸せかということを、話したとしても、わからなくて当然である。また、何はともあれ、目の前の若者たちを救えなければ、大人たちにとっては敗北である。日本の若者が暗いのは、一見競争が激しいからのように見える。過度の競争は多くの人間を傷つけることは間違いない。しかし、私たちは、知性を蓄えるということが本質的に、大多数の人間の心に暗さをもたらすという皮肉な側面があるということを再認識しなければいけない。

【世界一幸せな国は無知な国】
 現在世界で一番幸せな国はフィジーだそうである。インタビュー動画を見ても、フィジーの人々は「あなたは幸せですか」という問いに皆ほとんど即座に「幸せだ」と答える。その声と表情は嘘偽りのない心からのものだと感じさせる。しかしこの国は今過疎化が問題になっている。教育制度は薄く、今はたしかに幸せだが、未来への不安から海外へ留学や出稼ぎに出るのである。人は幸せなだけでは充足できないのだ。少なくとも現代人は自己の可能性を追求し、未来への不安を取り除かないと、落ち着かないのかもしれない。
 発展途上国に行った先進国の人々は、皆現地の子供たちの明るさに驚く。こんなに貧しいのにどうしてこんなに明るくしていられるのかと。それは無知だからである。無知くらい、今の瞬間に人を幸せにするものはない。日本の子供たちはその点、宿命的に不幸である。将来のことを考えた大人たちが子供の無知を放ってはおかないからである。そうして、日本は世界でも有数の経済と物質の安定した国であり、長寿国なのである。これは他国との比較相対論ではない。人類それぞれに突きつけられている究極の二者択一なのである。
 ちなみに、先の発展途上国を訪れた学生たちが、もうひとつ、必ず言う感想がある。それは「発展途上国に行って、お金があるだけが幸せなのではないということに気がついた」というものだ。こうした若者たちは、では、その国に留まって「幸せ」を享受するのかといえば、まずそうではないだろう。彼らはお金が好きで好きでたまらないので、お金がなくて楽しそうにしている他国の子供たちが不思議なのである。そして大抵の場合、こうした国々にレジャー感覚以外で行くつもりはない。ある意味、自分と彼らは違うと思っている。これは日本人の子供たちがいかに資本主義に汚れてしまっているかをよく示すものである。この言葉を吐く日本の子供たちはたしかに不幸である。しかも自分の不幸に気がついていない。そして不幸に気がついていない分だけ幸せであり、愚かであるに違いない。

【未来志向の若者は弱肉強食が大好き】
 多くの若者が日本のこの苦しい受験システムに疑問を持ち、先生が上から一方的に教えるだけだと感じられる生徒と教師の距離感に疑問を持っている。海外の学校を体験してきた子供たちはみな無邪気に言う。
「あちらでは先生が生徒と同じ視線で対話するように授業が進んで、とても有意義だった」
 私も嬉しくて「それは良い体験をしたね」と答える。すると次に生徒は大抵
「日本もそうすべきだと思いませんか」と聞く。
そんなとき私は、講師室に遊びに来た卒業生(先の生徒の先輩に当たる子たち)が言っていたことを伝える。
「就職先の職場環境はどうですか?」
「私は英語も表計算も、会社のおじさんたちよりずっとできるのにお茶汲みばかりなんです。あの人たちが高給取ってて私が安月給なのは納得がいきません。その人たちがいない方がはかどるのに」
 私は「実社会は複雑なんだよね」と同情する。
 この話をしたあとに、私は先の受験生たちに聞くと、「まったく先輩のいう通りですね」と頷く。
 私はそこで彼らに言う。
「君たちは今競争に勝ち抜いた先輩たちに共感し、自分達については競争は良くないと言っていることになるよ。それは自分が勝っていたら弱者をくじき、自分達の先が見えないと競争を嫌う、ある種の残酷な態度ではないのかな」
 逆に受験戦争のない文明国では、社会に出れば完全に実力主義である。弱者は否応なしに切り捨てられる。そちらが良いのだろうか。それは一握りの勝者だけである。これを社会的格差と呼ぶ。
 自信のある未来志向の若者は無邪気に弱肉強食社会を選ぶ。それは格闘技のファイターがみな「自分が世界一強い」と信じてリングに上がる姿にも似て、眩しいものである。しかし、日本の大人たちはそんな無責任な思想は許しきれない。厳しい競争社会があるのなら、体力のある若いうちに学校という安全な環境で体感してもらい、大人になったら比較的安定した環境で私利私欲にとらわれずに働くというのも良いのではないか。高校まであまり競争をさせずに社会に送り出したら決して偏差値や素行点だけでは済まされない、騙し合いと犯罪ギリギリの行為まで混じった競争社会に放り出すということが全面的に良いのだろうか。

【日本と欧米のクラス授業の比較】
 先の、なぜ、安易に日本式の授業システムを捨て、他国の授業システムを採用するべきではないかについて少し説明しておきたい。まずは世界から注目されている基礎教育(雑巾がけ、クラス担任制度、部活など)の貴重さはもちろんであるが、中卒であれ大卒であれ、果たして社会に送り出したときにどのような差が生じているだろうか。
 アメリカの番組で、道行く人に世界地図を見せ「どれかひとつでも良いから、地図を指して国名を言ってください」というクイズを出す特集番組があった。その番組の場合はたった1人の(おそらく仕込みの)少年以外は誰も一国も答えられなかった。中には自国のアラスカを指して「グリーンランド」と言った人もいたが、大半が適当なところを指して「アフリカ!」というだけで、「それは国に名前ではありませんよ」と言われていた。これは決してスラム街で行われたわけではない。かなり上品な服装の人々だった。自国と他国の区別もつかない、そのような人たちが「日本はこうすべきよ」と上から目線で言うのである。ヨーロッパでは、「世界史」と言ったらほぼヨーロッパ圏の歴史だけである。それが彼らの「世界」である。フランスの場合なら世界史では日本については「被爆国」というだけしか出ない。日本人に「世界史についてなにか知っていることを教えてください」と聞けば大抵の人が「私は世界史はほとんど知りません」と恥ずかしさを隠しながら言うであろう。それは日本人がかなりの量の世界史の知識を知っているということである。日本人は少なくともナポレオンもバイキングもリンカーンの名前も知っている。人は専門外の知識については勉強した人ほど「なにも知らない」と言い、勉強していない人ほど大風呂敷を広げ「知っている」というものなのである。そのような知識水準で、教師たちと「同じ目線」で語り自己主張をするとどのような社会ができあがるか、考えた方が良い。日本人学生は自分の意見を堂々と言わないというのはたしかに本当であるが、難民対策、CO2問題、電気自動車など、よく調べないうちに理念的自己主張を繰り返す気質を許す教育のために、欧米が自分達自身をどれ程滅茶苦茶にしてきたか考えた方が良いのではないか。

【居場所】
 自殺率の高さの理由は、北欧では日照率、中央アフリカでは貧困、という具合に国や文化によって変わる。日本の場合は、何だろうか。もちろん一つの理由に断ずることはできないが、一番大きな問題は「孤立化」であると思われる。
 テレビなどの大手メディアでは、子供が自殺したというとすぐにいじめの問題を取り上げるが、それは一因に過ぎない。なぜなら多かれ少なかれどの国にもいじめはあるし、しかも他の国の場合、日本人が体験したことのない「差別」という問題もある。日本は差別は非常に少ない国である。(そのことは海外に一年以上過ごした日本人とだけ語りたい。)しかし、その分だけ日本に自殺が少ないわけでもない。いじめにせよそれ以外の原因にせよ、自殺の理由は何であろうか。それは逃げ場がなくなることであり「孤立化」である。
 一つには、子供たちにとって学校と学校に通わせている核家族の両親だけの環境が逃げ場をなくすということである。
 もう一つには、日本という国全体をみたときに、先の偏差値に象徴される平等で一律化された価値基準が頭に刷り込まれることによって、自分の居場所がなくなることである。
 たとえばあなたの職場の人たち十人があなたと同じ能力を持っているがただあなたを除いてはマシーンのようにミスだけはおかさない人たちだったとしよう。そしてあなたはその個性からたまたまつまらないミスをしてしまったとしよう。その場合、同僚たちはあなたをそのちっぽけなミスのために居場所がなくなるほど批判の目を向けるだろう。もしそのときに誰かが「わかるわぁ、私も前に同じミスをしたのよ」と言ってくれればそれだけで緊張は溶解する。「居場所」というものはその人の失敗も含めてまるごと受け入れてくれる場所である。それは、あなたのおばあちゃん、学校の保健室、教会の懺悔室という場合もあるが、現代においてはそれが得られにくい。これは現代の非婚率の高さにもいえる。現在は「婚活」ブームであるが、これは決して成功率が高くない。年収や年齢、将来性などで条件が決められた時点で通常男性側のプライドはズタズタになり「自分でなくてもいいのだろう」という不条理な劣等感に苛まれるからだ。
 比較が人を不幸にする。一律化によって精神的孤立化が生じるのだ。これは新型コロナ禍における異常なまでの芸能人不倫バッシングなども同様で、一律化された基準を押し付けることによって、自分の精神的緊張の捌け口にしている例だ。インターネット上の炎上も同様で、ターゲットにされた人は職を失い自殺寸前まで責め立てられる。日本にはたしかにその意味で逃げ場がない。
 友人のドイツ人が「日本人は素晴らしい民族だがファシスとでもある」と言っていたのを思い出す。規則を守る姿勢のみを過度に重視し、それでしか人を判断しないのは、たしかに日本人の大欠点である。
 自他を比較し孤立化し居場所がなくなること、これは自分や他人を自ら「選択」できると思っているからであり、人間とは「受容」するものだという視点が失われているからである。沢山のことを知ることは、選択の意識を先行させ、多くの場合、受容の力を弱まらせる。今やこれを本当の頭のよさだとは言うべきではないのだが、特に集団になるとこういう性質が知性の特徴だと錯覚するというのも事実である。そのため、「無知」こそが「幸福」を生み出すのである。そして、知識を有しながらも幸福でいられるためには、「人と自分を比較しない」という強靭な精神力が必要となってしまう。

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