【文系・理系問題】
文系・理系の区別の問題は日本特有の文化である。多くの場合、数字の苦手な人が謙遜して「私は文系ですので」と言ったり、処世術に疎い論理家の人を「あの人は理系だからね」と受容したり摺るのにそもそも使われたはずだが状況が殺伐としてくると「これだから文系(理系)は困る」といった言い方に発展する。人間区分が分断に利用されないようき気をつけなければいけない。現代人は「あいつはバカだ」と言いたくてしょうがないのである。
一方で、よく海外の理数系の教授がTED などで楽器を弾きながら発表舞台に出てきたりすることがある。「この人もまた、『理数学者だから芸術がわからないだろう』といった偏見に対抗しているのだろうか」と思ったり、何よりも「別分野の人が軽々しく楽器を扱うのは芸術家へのリスペクトを欠いているのでは」と思ったりする。
他の国では文系・理系の区別の必要が出るほど文系が発達しなかったという言い方もできる。そしてそれが政治や経済など一部の社会では悪さを働いている。井沢元彦氏が「言霊の国、日本」といい、高橋洋一氏が「ド文系が国を滅ぼす」といったように、知識人が日本語の思考単位に縛られていることに警鐘を鳴らしている人もいる。ではそのような人たちは本当に、飛躍した打開案を持っているのだろうか。まずは彼らは目の前の問題と闘ってくださっているのである。
「本当は文系・理系の区別があるわけではなく、理数系が苦手な人と得意な人がいるだけだ」という意見もある。また「文系」の中には社会科学系と人文系があり、これは互いに近くて遠い分野である。
【理系の人は必ずしも論理思考をしていない】
よく、理系分野に携わっているから論理的思考をすると思い込んでいる人がいるが、それはむしろ逆かもしれない。なぜなら、理数系分野は既に数字によってがっちりと論理思考がずれないように設定されているので、その枠内で論理を働かせればよい。だから取り立てて論理的思考力は要らない。しかしながらNASAの職員その他さまざまな現場の技術者は、遥かに肉体労働的な頭脳を駆使して問題を解決しようとしている。またいわゆる「文系」分野の人々は数字という思考ユニットのないところで論理的展開をしなければならず、一般の理系の人々よりもずっと論理的思考をしているとも言える。その意味で、数字や科学に身を委ねているだけで「理系」を自認しさらにそれゆえに、自分が論理的な人間だと思っている人に、論理的な人はいない。
【日本人の若者の愛国心の強さ】
先日、台湾から日本に帰化した二人の学生が次にのように言った。彼女たちは高校2年まで台湾で過ごし3年で父親のいる日本に帰化した。
「日本人は愛国心が強いですね、戦争があっても団結しそうです」
日本人の友達たちが耳を疑ったのは言うまでもない。私が訊いた。
「学校で討論かなにかしたの?」
「いえ、日本で普通に過ごした感想です」
「でも、日本人の学生は君たちのように政治の話はぱっとできないよ、事実君たちはすぐに今度の選挙の話をし始めたじゃないか」
「それはいいんです。そういうことではなくて、日本人って自分の国や歴史に興味を持っているじゃないですか。それから父が引っ越しの時にお隣さんにお菓子をもって挨拶していましたから」
日本人学生は戦争反対を訴えながら実は、「自分が死ぬくらいなら何を捨ててでも自分だけは生き残ってやろう」と思っているかもしれない。しかしそれはどこの国の若者でも同じである。ただ、戦争というのは私たちに究極の選択を迫る。たとえば、2024年正月の日本航空機の火災事件の時最後まで冷静に行動した乗務員に世界が喝采した。規律を教えられたとかという次元ではない国民性の証である。
「たぶん私の国が中国に占領されたら多くの若者は『自分が死ななければどっちでもいいや』と思うでしょう」
極論かもしれないが、これらは彼女たちの言ったままの内容である。
日本人が古文漢文や日本史を通じて自国を愛していること、そして引っ越し先の見知らぬ隣人を同じ人間とみなして共存しあおうと尽くすこと、これらは彼女たちには新鮮な驚きだった。
「だいたい教える歴史が日本ほど長くないんですよ」
【知識のふるさととしての義務教育】
義務教育は、今までに語ってきたように、即座の有効性より「知識のふるさと」でなければいけない。次に私が気がついた小さな意見を列記しておきたい。
◯ 小学校の間にクラシック音楽と古典美術を体験する
幼い時に感じとったものが感性や思考の単位になっているとやはり有利である。「芸術は好みだろう」というが、大抵の人が青春時代までに知った音楽や芸術を自分の好みとしている。それ以外は感じて好きになることすらない場合がある。大人になってから自分で選択するのは構わない。しかし選択どころか頭にも浮かばないということでは、さらに広い人間の判断の場面で違いが生じてくるだろう。「よく知らなかった」という不足感でも十分だ。立派な知的判断を作る。「本来良いものだが、自分は不要だと思い選択しなかったもの」をいかに増やすかが、人間の総合判断を作るのだ。
◯ 古都を訪ねる
修学旅行などと行っても実際には、先生の目に隠れて現地で友達とショッピングしたり遊んだりしているだけだというが、それでいいのである。たとえば、海外で「あなたは京都を知っていますか」と聞かれたとき、行ったことがあるのとないのでは確信の度合いが違ってくる。私たちが実際その場に行き等身大でその空間を味わった経験が大事なのである。それが言葉やデータだけでは補えない情報をもたらすのだ。
◯ 高校までに海外留学をしよう
外国語を学びとるには圧倒的な強みになる。高校までは事実上「子供」扱いである。学生はホームステイ先で「ママ、アイム・ハングリー」と寝転がることもできる。つまり第二の故郷となる可能性が高いのだ。もちろん言語習得にも有利である。私は今も英語を話すときに高校留学生だった自分をどこかで意識する。大学生以降になるとなかなかそうはいかない。一個の大人としての遠慮も生じる。よく大学で充実した留学体験をした帰国生に、後輩たちの前で体験談を話してもらうことがある。最後に私は聞く。
「では、あえて言えば、もう少しやりたかったことはありますか?」
「・・・あえていえば、もっと遊びたかったかな」
逆の立場に立って、海外から日本に来た留学生に、学校や家に閉じ込もって勉強させておくだろうか?いや、あちこちに遊びにつれてゆくのではないだろうか。日本が彼らにとっての第二のふるさとになってほしいという想いがあるからである。
また、尊敬すべき知識人の立派であるはずの意見が、私たちに「ん?これは違うぞ」と感じさせるとき、それはだいたい海外体験のない人が普遍的問題を語っているときだ。日本は高度な翻訳文化システムを持っていて大抵の情報は日本人感覚でなんとかなる。しかし、海外でだけで感じとることができる、ある人間ともう一人の別の人間とに横たわる圧倒的な違い、というものだけは、体感できない。これに基づく差別問題もわかりにくいであろう。これらに気がつかないと、どこまでいっても根元的な意味での「人間とは」という問題に、普遍的な視点でアプローチできない。これらを国内にいながらに処理できる卓越した知的想像力を持った人もいるが、それは私たちが万人に要求できる特技ではない。海外を体験していないということは、「人間」を論じる時に、他者を「自分と同じ日本人」の枠で論じることになる。(「日本国内にいる外国人は?」というが、その場合彼らは一種の日本人の状態である。)
日本人の素晴らしいところは、他の民族も自分達と同じだと考えるお目出度いところである。そんな日本人の国民性を大切にしたい。だからこそ、「日本人の90%は英語が話せなくて良い」のである。そして若い人にはなるべく高校までに留学していただきたい。
◯ 学校でのボランティアは義務化してはいけない。
「ボランティア」という言葉に違和感を持つ人も多い。人を助けることを表す名詞の使用は日本人的ではないからだ。日本人が中学一年で覚え、使う機会がほぼない英語表現に"You are welcome "がある。「どういたしまして」とわざわざ言うメンタリティーがないのである。
ボランティアの発想は、資本主義とプロテスタンティズムが結び付いた結果として出ている。清貧と勤勉を貴び、競争社会で人を押し退けながら、働き詰め、ふと気がついた時に彼らは「そうだ、ボランティアだ!」と気がつく。彼らにとって善行は意識されるものらしい。日本人は、善行日頃の生活のなかで人知れずやるものであり、恩着せがましいものに見られたくないという恥じらいがある。童話「ゴンギツネ」などもその例である。立派なことをした人間を称賛はしたいが、自分でやると、他人との人間関係上の優位に立つようで、避けたいという心理である。「ハッハッハッ、当たり前のことをしただけですよ」なんて、間違っても言えない。世界一の金持ちの一人ビル・ゲイツのプロフィールも「慈善家」である。それに比べZOZOTOWNで知られる前澤氏は、日本人一流の照れから、あえて金満家を気取っているのかもしれない。
そのボランティアの概念が学校教育に導入された。悪いことではない。日本の学生たちも柔軟である。決して驕ることもない。それは日本文化の教育システムの中にある活動だからである。しかし、現在、推薦入試の査定のためにボランティアはほぼ必須・強制である。長い目で見てこれが健全だとは私には思えない。
◯ 日本の大学では遊ぶべきである。
日本人学生は高校まで勉強ずくめだ。どこかでガス抜きが必要である。
かつて、日本の大学生は遊んでばかりいると、テレビで批判的に報道される時期が続いた。そして興味深いことに、Fランと呼ばれる偏差値的には高くない学校の学生たちが特に批判をした。どこの大学でも同様の当時の緩い雰囲気が、自分達の学校だけだと思ったからである。旧帝大系の学生などは勉強など自分でやるものだと心得ているし、大学教員へのリスペクトが先行し、あまり批判的にはならない。これらの運動の結果、大学は厳しい勉強の場になった。私は個人的には、高校まで勉学に励んできてようやく一里塚に達した若者たちには、今まで蓄えてきた教養を自分なりの自由なやり方で楽しみながら利用する時間を与えてあげたい。日本の若者は人生のどこで息を継ぐのだ?東大から電通に入り自殺した女性、痴漢をはたらいたエリート公務員など、私たちが「どうしてこうなったのかしらねぇ~」と答えが得られないとき、このようなところに答えがあるものだ。
◯ 「やる気スイッチ」の危険性
大手中学受験塾の広告マンの台詞に「中学で駄目だったら高校でもう一度チャレンジしてもいいんです」というものがあった。教育とは無縁の、心ない言葉ではないだろうか。子供は一回だけの青春の貴重な時間を割いて全力で受験する。大人と違ってリミッターがかかっておらず、本当に全力で挑戦する。その結果が良くても悪くても、とにかく子供は真っ白になっている。そこにもう一度やれというのはあまりに残酷である。一年頑張ったのなら三年は遊ばせたい。受験に「じゃ、もう一度」は利かないのである。
同様に最近普及した言葉「君のやる気スイッチを探そう」というものも同様である。子供はロボットではない。しかもそれを外から入れるのか。大人が気に入らないスイッチの入りかただったら、また入れ直すのか。本当にスイッチを入れたかったら思う存分有意義な遊びをさせることである。
私はこんなことを書いているがそれは理想論であり、たいていの子供は遊び方も人生の意義も見いだせずに弱いものをいじめたりその他の悪さをしたりするケースも多い。であるから、万一「やる気スイッチ」が入って伸びたのなら、資質としてどうしょうも無い子が一人助かったということになる。それだけである。悪いことではないが、お粗末である。
今では「人生で大切なことは全部ゲームで教わった」という実業家もいる。これもまた推奨はできない逸話ではある。なにはともあれ集中力は育ったのだろう。
◯「教師は社会経験がない」という論はあまりに幼稚
多くの人が「教師なんて社会経験もないくせに子供に偉そうにものを教えるどうしようもない人格だ」的な発言をする人がいる。一時期よりは減ったと思うが昭和の時代には誰もが使う当たり前の言い方だった。それだけ先生の権威が保証されていたのかもしれないが。実際にどうであろうか。教員は本当に社会経験が少ないのか。それは考えにくいだろう。一日中チケットのモギリで頑張っている人もいれば、がらんとした田舎の量販店で一日一人か二人しか来ないお客を相手に暇を潰している人もいる。それも立派な労働であるが、そのような人に比べて、教員の方々が社会経験が不足しているとも思えない。早朝から子供たちの模範をつとめ、モンスターペアレントに対応し、反抗期の子供をなだめ、40人もの子供たちがトラブルがないように見守り、さらに授業と採点である。しかし、世間にはしたりがおで「先生というのは自分は学校という狭い社会の中から一歩も出ず無抵抗な子供に講釈をたれるだけの存在」といまだに言う人がいる。さすがにこれは自分の幼少期の教師への反抗心を自己分析できないままに大人になってしまった人の弁ではないだろうか。それは映画製作について、スクリーンに見える映像からしか判断しない人と同じであり、街中で偶然会ったお笑い芸人をいきなり罵倒したりするような水準と変わらない。このようなことを平気で言える態度を、知性や教養の一つの試金石にしてはいけないだろうか。
先に「先生」ブランドの重要性について書いたが、このような子供じみた人たちが教育社会を悪くしているかと言えばそれほどでもないようだ。世の中には立場と地位でしか人を判断しない人がいてその人たちと同レベルでの均衡を保ち、実際の教師についての本質論からは離れているようである。それよりも恐ろしいのは「先生」という言葉が使われなくなることであり、時には先述の部活外注アスリートなどが学内に入りすぎることで、先生ブランドのバランスが崩れることである。通常生徒たちは柔軟である。しかしながら、反抗期を消化できないまま大人になった知的貧困層が一番の地雷元になるのではないかと考えられる。
【知性とは】
ここまで教育の観点から、人間の知と総合判断について語ってきたが、まとめとして、「知性とはなにか」について私の意見を述べておきたい。私は「知性」とは「気がつく」ことだと考えている。それは人間が自然界の一個の動物である限り越えることができない認識の限界を何らかの形で越えることである。この「認識の限界」のことを私たちは「本能」と呼んでいる。私たちは何らかの形で物質的現実および認識を越える瞬間を持たなければ、動物の状態にとどまる。これらの限界のそとにあるものに「気がつく」ということが知性である。
「気がつく」ために教育はある。そして、知性の飛躍、気がつくこと、価値観を転換させることこそがこれからの人類を救う。決して自分自身を救うという意味だけではない。世界的な人類の判断を変えるということである。
私たちはモノに対しては比較的簡単に越えることができた。これが自然科学である。これによって多くの人が驕り高ぶった。たしかにそれほどまでに刺激的なものでありそれだけの成果を得た。しかし人間に対してはどうであろうか。これはまだ成果は十分ではない。ある人はそれを「悟り」といい、ある人は「自己承認」と呼んでいる。これらはほぼ完全に私たちを導いてくれるに違いないが、人類全体への汎用性が弱い。または歴史とともに弱い位置におかれてしまっている。私は人類に与えられた手段は、芸術哲学と、人間の時間的視点からの分析だと思っている。前者については前章までで述べた。後者については次章で述べる。
芸術に象徴される人間の美意識は自分と他人を比較しないためにあるとも言える。一人一人が独自の時間の中で生きることである。その意味で、時間は作るものではない。忘れるものである。そして現代人が最も必要としている知性のかたちである。