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第二章 芸術哲学について1/4 
第二章 芸術哲学について

【芸術における良い作品と良くない作品】
 「芸術」というと、現代の私たちはしばしば「主観なのだから芸術作品に良いとか悪いとかはない」という言い方をする。しかしそれは、芸術作品における「感動」を構成する「感情」と「感覚」を混同しているのではなかろうか。これらは別のものである。
 人は自分の好きな作品を批判されそうな兆しがあると、「主観なのだから芸術作品に良いとか悪いとかはない」と反論する。それは自分の感じたものに自信をもてない存在の劣等感である。私たちは自明のものにはそのようには反応しない。たとえば、とても美味しいお菓子を食べているときに「このお菓子は美味しくない」と言われても人は逆上しない。「・・・そうか?俺は好きだけど。」で済んでしまうはずだ。そして、「芸術は良いも悪いもない」と強硬に主張する人に限って普段はその芸術を愛してはいない。日頃はそれほど集中もせずに「娯楽・気晴らし」として見たり聴いたりしているだけである。しかし、それゆえに、即興の芸術論の場では声を大にして主張するのである。つまり、自分が確信が定かでない分野について、「人間平等」という別の価値観から、自分の劣等感を隠すために、自分の守備範囲外の「芸術」という分野を批判しようとしているだけである。(野球を好きでない人間は、野球の本質について語るべきではない。)
 芸術作品が人間のなんらかの精神活動の技術的具現化である以上、良いものと劣るものは存在する。

【「人はそれぞれ」と断じる愚かさについて】
 芸術において、「人それぞれ」という言葉を用いて、対象の価値を決めるやりとりそのものを否定する態度がある。しかし、人間は何が正しくて何が間違っているのかという真理を追求してゆく生き物である。それ自体が人間の定義であるといってもよい。それが芸術作品鑑賞にも適用されるということである。適用されるということは、大学に美学等の教科があるということであり、芸術家の立場が、かつてのような河原乞食的身分ではないことを意味する。
 「絶対的な真理などなく真理とは相対的である」という相対主義哲学に基づく芸術観は、現代人からは安易に共感されやすい。「これこそが絶対的真理だ!」と主張するよりも、「人それぞれだよね」と言う方が大人で、柔軟で視野の広い印象を与えるからだ。これは現代の高度に発達した社会の人間関係における処世術としても「賢い」印象を与える。現代の社会科学的原理に基づいた動きを考慮しているという点で「頭がいい」という印象を与えるのである。人とむやみな衝突をせずに事を有利に進めることは、考えることを拒絶している多くの人々に支持されやすい。また、芸術に関しては、わかりにくい作品に対してのむやみな劣等感を刺激しなくてすむ。人がこの問題に触れ、否定に走るのを日常的にみるとき、この現代でも感情抜きで語れる人は少ないものだなと実感させられるのだ。
 この相対主義は、現実の世の中ではなおさら「人それぞれで、絶対的な真理なんかないんだから、そんなもの目指さなくてもいい」「何事も絶対的に決められないんだから、適当でいいんじゃない?」と、いう思考停止に陥る。特に民主主義国家の場合には致命的である。考えない「多数決」は無責任な衆愚政治になるからだ。これは、人間一人一人が別個に意思を持つ存在である限り、避けることはできず、政治や社会だけではなく、美意識などの人間の(一見)内面の問題のように感じられるものにも適用する。というか、それが「探究芸術」である。
 紀元前400年ごろ、こうした相対主義の祖であるプロタゴラスの思想に対して、ソクラテスは「人間は絶対的な価値・真理を追究していく存在である」と主張した。そして、無知の自覚こそが真理への情熱を呼び起こすとした。これが「無知の知」である。
 芸術作品、特に探究芸術の立場では、人は常に「何も知らない」状態におかれる。それは芸術作品が言葉や数字による一切の理解を拒絶している現実から始まるからだ。私たちが言葉を失うのは、「愛」と「美」の前においてのみだ。私たちは芸術に感動する時、すべてを自分流に一から集中し考え直さなければならない。そこに人類に与えられた、最も高度な思考がある。人間が常に作り出してきた文化や芸術による「美」は、私たち人間一人一人の個体における「愛」から、本能と欲望を切り離す。
 この意味では、数字の計算が速いこと、人への心遣いにおいて器用であること、絵画作品の文化的時代考証をするだけで理解した気持ちになること等が、いかに人間の頭脳の利用において、お粗末なことかがわかる。

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探究芸術と共感芸術4/4 

【映画評論家の良心】
 良心的な、分析力のある映画評論家の多くが共通して言う言い方がある。それは「映画は最高の娯楽作品だ」という言い方である。これは本当に対象の本質を捉えた謙虚かつ聡明な発言である。映画は、現実自体を素材に、視覚と聴覚の両方を媒体とする、かなり具象的な表現作品形態である。その感動が芸術であるかということは個々の体験によるのだが、映画評論家が「映画は芸術だ」と乱暴な言い方をしないところは、本当に本質を捉えているのではないか。
 また、監督やその他の映画製作者は、「音楽にはかなわない」という言い方をする。それは聴覚という単一の媒体しか使わない表現形態が本質的に持つ抽象性こそが、その形式と象徴の力によって莫大な情報量をもたらす、その力になかなか対抗はできないからである。
 映画の素晴らしさは具体的であるがゆえに、有機的である。時代や鑑賞者個人の体験や成長などとも連関しやすい。これらの価値を本当に見据えたとき、映画評論家は「最高の娯楽作品だ」という言葉になるのである。

【歌がうまいということ】
 私はビートルズのコピー・バンドは日本人が一番だと思っている。日本人はビートルズのように白人にもなれないし、英語の発音もままならないかもしれない。しかし、それでもポール・マッカートニーは自分の誕生日に日本人のビートルズ・コピー・バンド、パロッツを呼んだ。
 コピー・バンドは単に物真似をするだけなら日本人は不利だろう。しかし、私たちもポールも、「ね、似てるでしょ」と思いたいわけではない。ビートルズが目指していた音楽を再現してほしいのだ。それは、当時のビートルズ本人でさえもなにか自分達の演奏と歌声の先にあるなにかを目指していたのであり、自分達が単にアイドル的に自己表現していたわけではない。それはアイドルであって芸術家の姿勢ではないからだ。日本人演奏家は基本的にこの姿勢を本能的にとる。つまり芸術作品に対するリスペクトが先行する。毎月のようにアップされるインターネット上のビートルズのカバー演奏の動画をチェックする度に日本人以外の多くの「プロ・ビートルズ・カバー・バンド」がステージ上でいかにいい加減な演奏をしているかには恐れ入る。それが英米人だったりするとさらに、見かけを似せようとしすぎて、ある種の照れが加わる。私たちはビートルズ音楽を、生の機材で再体験をしたいのであって、物真似演芸を見たいのではない。体験したいビートルズと同じ視線でビートルズの追い求めていた音を真摯に追うこと、これしか真の芸術再現に近づく方法はない。
 先日、テレビでアマチュアによるカラオケ選手権大会を見た。数時間にわたる長大なものだったが、たまたま、感動させるものが何もなかった。(感動させるものがある回もちろんあるだろう。)彼らは大変歌がうまく人間としても魅力的にみえた。しかし、彼らは、歌っている歌手に似せようとしているのであって、その歌手の目指そうとしているものを共に追っているわけではない。であるから、どこまでいっても魅力的ではないのだ。
 ジョン・レノンは単にビブラート等の技術でいえば一番うまい歌手ではないかもしれない。しかし、音楽家の本能として自分の狙う音楽性をはずすことはない。その精度とダイナミズムにおいて上回る歌手は滅多にいない。音程が正確かビブラートが利いているかといった基準だけでは、物真似とカラオケ以上にはならないことが多いのである。

【21世紀日本文化の役割】
 2024年初頭、山崎貴監督による映画「ゴジラ-1」が世界中で空前のヒットとなった。これは本来なら1954年の初代ゴジラの発表の時点で世界が理解しなければいけなかったものを、その後の日本の映画文化の下降も含め、理解ができるようになるまでこれだけ時間がかかったという見方もできる。何はともあれ私は本作品を劇場でみてようやく世界がわかる時が来たと予感した。各国の国民が、戦争のPTSD を理解できるようになりそこに共感できるようになったということも大きいが、それ以上に「戦後の状況を扱いながらそれをどのような現実や一方的価値観に着地させなかった」ということが重要なのである。世界はそれによって、共感芸術の究極の姿をみたのであった。
 たしかに、既にアニメ作品でもそのような表現を日本は発信し続けていた。しかし、それはスイスにおける「アルプスの少女ハイジ」などというように、鑑賞者はまさか日本人が製作しているとは思っていなかった。(その水準の認識である。)そしてディズニーは「ジャングル大帝」をパクり「ライオンキング」を作って平気であった。(「ゴジラ-1」でもそれができるのだろうか?作品の真の精神性をパクるというのはどうやるのだろうか。)
 音楽において「ウィー・アー・ザ・ワールド」のように世界を繋ぐのは容易であるように見えた。しかしそれは現実の効力としてどれだけのものだっただろうか。それは探究芸術としての音楽が各個人に強いる集中力に万人が必ずしも対応できず、また、共感芸術としては抽象的体験にとどまり、人の認識を変えるところまではなかなか行きにくいからである。共感芸術としての映画の場合そのような問題は少ない。その代わりに、具体性ゆえに鑑賞者の立ち位置や環境の問題が生じがちであった。少なくとも日本文化が目指すところとしては「ゴジラ-1」でこの問題は払拭されている。共感するということはユニバーサルなものであるはずだという夢が一つかなったのである。
 では、現実にこれからどうなるのだろうか。かつて世界ではじめて人種差別撤廃条約を提案したのは日本だ。それを潰したのは英米だった。では「ゴジラ-1」における再生の物語には、どのような逆風が待ち受けているのだろうか。しかし、日本は無邪気にこれからもこうした作品を作り続けるだろう。そしてそれは世界を変えてゆくだろう。世界はそれに耐えられるだろうか。耐えて変革していただかなくては困るのだが、それによって人類は多少はましなステージに上がるだろう。そのときには、BLMのような力による訴えや、「世界に平和を」といったお題目がなされずとも、一歩前進できるのではないだろうか。

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探究芸術と共感芸術3/4 
【ジブリ作品の偉大さ】
 ジブリ作品を代表とする宮崎駿監督作品は、その高品質で世界から愛され、日本の誇りでもある。しかし、中でも今一度注目して頂きたいのは宮崎監督の強烈な作品への形式感である。宮崎氏は、知る限りでは戦後の反原発主義者であり、その思想には批判的な人は多い。原発の良し悪しの問題ではなく、この世代の人々に特有の非合理的なまでの反体制的態度が、垣間見られるからである。しかし、宮崎氏が偉大であったのは、そのような主張を持ちながら、自身の映像作品にはまったく反映させなかったことである。(あえてあげるなら1995年CHAGE and ASKAのプロモーションビデオ「On Your Mark」に垣間見られるが、これも現在ではマニアの楽しい分析ネタとなっている。)「風の谷のナウシカ」であってもたしかに環境破壊を訴える映画であることには違いないかもしれない。しかし、彼の創作者としての美意識・良心には一点の曇りもない。その時代や現実から隔離させた晴朗さが私の胸を打つのである。
 このように考えてゆくと、ロック音楽においてたとえばエリック・クラプトンの人気作品「ティアーズ・イン・ヘヴン」が彼の亡き息子を悼む歌だとかという分析が非常に危ういものを含んでいるということに気がつくべきであろう。

【第9交響曲】
 ベートーヴェン交響曲第9番のテーマは、「探求芸術から共感芸術へ」である。
 私はベートーヴェンの最後の交響曲第9番「合唱」は大好きである。特に好きなのは第一楽章で、晩年のベートーヴェンのたどり着いたベートーヴェンらしさである。それはベートーヴェンの探究芸術的な側面の頂点のひとつである。その一方で一般には第4楽章が人気である。年末になると、ときにはこの楽章だけを取り上げて、大衆参加の合唱コンサートが催される。これは人々の「感情の器」になりやすく、その意味で、共感芸術であるからだ。年末に第9を歌うという風習に、欧米の人々は驚くようだが、日本人はこうして探究芸術としてのクラシック作品を、最高度のリスペクトを込めて、共感芸術化したのである。
 (また、ここに芸術史におけるパラドックスが起きたということも付記しておきたい。というのも、一般に「ベートーヴェンの第9によってロマン派が開かれた」という言い方がされるが実際には、第9によって探究芸術から共感芸術への変容がなぞらえられたことで、音楽史は、宮廷音楽のような共感芸術から、ロマン派の個々の芸術家による探究芸術への道を歩んでいったのである。すなわち、いずれにしても健全だった十九世紀では、個々の作品の芸術的深化は進んだのである。しかし、
その音楽史的な流れとは関係なく、今も第9は演奏される度に、探究芸術体験を共感芸術体験へと導く働きをしている。)

【ビートルズの業績】
 ベートーヴェンの第9の事例と対照的な現象が、ビートルズのスタジオ・ミュージシャン化である。ビートルズは当時全世界で空前絶後の人気を得て、ビルボード全米第1位から第5位までを独占した。しかし、その7枚目のアルバム『リボルバー』頃から一切のコンサート活動を意識的にやめ、実験的で自己探究型の作品群を生み出すことになる。これは先のベートーヴェンの場合と対照的な現象で、まさに「共感芸術から探求芸術へ」のストレートな活動であった。第9の場合も同様だがこれらはベートーヴェンやビートルズの高い意識によってのみ達成されたものではない。第9の場合は現代に至るまでの日本の欧米文化吸収のわかりやすい例であり、ビートルズの場合はその後も「自己の芸術を極める」という姿勢を取る若いミュージシャンは多いが、彼らは必ずしもこれらにあてはまっていない。ビートルズは、それまで大衆音楽の位置に過ぎなかったロック音楽を普遍的な芸術の位置にまで引き上げた点でもまさに革命であった。
 一方、現在のロック・コンサートは一般にどうであろう。大抵の場合、コンサートホールの音は大きすぎ響きすぎて、決して冷静な鑑賞に耐えるものではないという向きもあろう。ファイルやCDで聴いたものをより共感芸術的に確認するために集うのである。

【「自己の音楽性を追求する」アーチスト】
 このような意識の流れを経て、現在では多くのミュージシャンが「自己の音楽性を追求する」という姿勢を取っている。その人たちは自分の世界こだわり豪華な衣装や音楽的仕掛けをもってステージ上などで「私の芸術世界」を再現する。ファンは、それを「芸術を再現するために努力をしている教祖様」であるかのように心酔している。しかし、私はこうした表現は探究芸術の殻を被った共感芸術にすぎないと感じられる。やたらと熱唱する歌手も同様である。好きであれば構わないのだが、そこに「自己追求」という薄っぺらな主題が盛り込まれると鼻白むのだ。その追求は誰のため、何のためなのだろうか。それはそんなにカッコいいと感じられるのだろうか。
 情熱的な歌唱で人を巻き込む歌手は、共感芸術としての魅力を持つ。それは一期一会の貴重な体験かもしれない。それは共感芸術の一つのかたちであるが、しかし、それは作品に集中して鑑賞者が芸術を探究しているわけではない。アーチストが自己の探究的姿勢を打ち出すのは安っぽい自己宣伝にすぎない。ベートーヴェンの音楽でも彼の自己追求の姿に価値があるわけではない。それは伝記的次元の話である。時には彼の自己探究的なシリアスさを鑑賞者が自己の境遇となぞらえることはあるかもしれない。それは第五交響曲などにおいて多発する。しかし、それらもすべて、まずは鑑賞者が深くベートーヴェンの作品自体と対峙しその内面世界を自分なりに追い求めるという行為があってこそである。実質のない自己探求などに付き合う人はいない。しかし、現代日本では、共感芸術文化ゆえに、実質よりも自己探究の姿自体に酔いしれている人もいるようである。それは一種の讃美歌のようである。努力と友情を歌詞にすれば売れる歌も同様かもしれない。であれば、「はしれ、ちょうとっきゅう」といった童謡の方がはるかに純粋な探究音楽だということになる。

(続く)











 


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探究芸術と共感芸術2/4 

【差別と共感芸術】
 日本では、子供向けのマンガ、そしてアニメーションが世界を席巻している。どうしてこのようなことが日本人しか成しえていないのか。それは前述のような「みな同じ人間」的そして単一民族的意識も根拠のひとつであるにちがいない。
 「前世紀からアメリカには黒人の歌手はいたではないか」といった意見があるが、それは他国の差別の構造を知らない者の意見である。アメリカの黒人ジャズドラマー、アート・ブレイキーが日本に来たとき、彼とまったく差別意識なく写真に収まろうとした日本のファンたちに感動し、親日家になり日本人女性と結婚したことはよく知られるところである。つまり、他国ではアーチストが差別されリスペクトされないということは当たり前にあるのである。その意味で、ちょうど中世の宮廷音楽家の身分が低かったように、有色人音楽家達は一種の猿回しのように扱われていた側面もあったのだ。
 マンガ作品でしばしば黒い肌で描かれたキャラクターの表出やスカートめくりの場面や過激な描写が、昭和の時代から当たり前のように出ていた。マンガはそれによって幅広い表現形式を得ることができた。大人の漫画家たちは子供たちと感情や感覚を共有することによって、子供たちに人気のある作品を生み出したのであり、子供たちも大人の漫画家たちに共感と敬意を抱いていた。それは日本の平和的な単一民族的意識が生み出したものである。差別意識ではない。
 複数の民族や人種が混在する環境の方が差別を誘発しやすいというのは、人間の皮肉な特性であるが、日本における高純度の共感芸術的姿勢の達成は、日本が島国であったことやその他民族的文化的に比較的統一されていたことなども、重要な要素となっている。とはいえ、ほぼ同様の条件を備えていたイギリスやアイルランドでどうしてそれが起きていないのかと考えてゆくと、これは決して単純な地理=文化論では明らかにできないことがわかる。

【芸術と哲学の今日】
 芸術に対する欧米文化の最大の貢献は、コンサートホールと額縁を発明したことだと私は考えている。これによって作品は現実から切り離され、たとえば17世紀以後の宮廷音楽家たちなら、徐々にパトロンの御用達の地位から逃れ独立できる素地ができた。こうして芸術作品の独立性は認められ、作品内部に過度に干渉される勢力は弱められたはずだった。
 その後20世紀になると、その前半は科学の進歩の圧倒的な説得力に屈し、哲学者たちは本来果たすべき規範作りを怠ってきた。また、後半から今世紀に至っては、その多くの人々が過去の哲学書のテキスト分析と、社会科学的立場との融合によって、生き残りをはかろうとしているといっても過言ではない。私たちは、強力な主観というものを重んじずに来た。それが現状である。しかし、その間も、芸術自体は大いに発達した。まさに現代アート、映画、ポピュラー音楽の充実、サブカルチャーの商業的繁栄などである。それらはアカデミー賞やロックの殿堂など様々な意匠をもって評価されている。
 それでもなお、現代ほど、日本のそして世界のノームとなるような哲学が欠乏し、それが望まれている時代はないのではないだろうか。それは「感性」に基づく哲学であり、端的に言えば芸術哲学である。「感性」という視点はどのように論じられるべきか。本来、「科学」や「数字」はあくまでモノを分析する学問であり、「言葉」や「社会科学」の分野は人間と人間の間のコンセンサスの問題の一種の域を出ない。それに対し「芸術」や「感性」とは、まだ、数字や言葉以外の価値体系が、私たち人間の認識と判断の背後に残されていることを雄弁に暗示している。そしてこれこそが、もっと早くから迷える人類の進むべき方向性を指し示すべきだった。

【芸術作品とポリコレ】
 しかしながら、21世紀に至り、社会がグローバリスト達の影響を受けると、芸術は思わぬ悪影響を被ることになる。それが現在のポリティカル・コレクトネスである。これによってディズニーのティンカーベルは黒人が演じ、スーパーマンが男性の恋人とキスをするようになった。外部の思想を作品内に無理矢理押し込むことで作品の芸術性が破壊された。こうした作品群は、おそらくは(そして願わくば)、21世紀初頭の「文化的怪異」として時代の波の中で葬り去られることであろう。しかし、同時代に多感な幼少期を過ごしている子供達・若者達は良い迷惑である。
 政治的社会的な価値観を芸術作品に無理矢理にねじ込むことは、文化の破壊行為である。それは芸術の進化や発達ではない。
 22世紀の芸術解説者はしたり顔で「21世紀にはこんな風潮があったんですよ」と語り、それを聞いている人々は「彼の解説のおかげで芸術がわかった」と喜ぶのだろうか。

【アートという用語】
 また、現代日本では、元々同じ言葉を、日本語において「芸術」と「アート」と、用語を使い分けることによって、わからないままに利用している語法がはびこっているのかもしれない。
 前者は本来純粋に概念に対して用いられていたため、現在具体的に作品に適用される場合デモンストレーションでも一定の抽象的な本来の意味を維持している。(もっとも、たとえば、サッカー選手について「彼のシュートは芸術だ」と言った言い方はされるにしても、むしろそれは形容詞として、芸術作品へのリスペクトの上に成り立っている。この形容は「アート」という言葉でされることはまずない。)
 一方、「アート」は、主に同時代の文化的活動や作品に対して、「これも『芸術』としての立場や原理や価値として評価してもいいのではないか」という意味で使われる。この結果、本来の「芸術」作品の価値に重きをおかない価値観の人間が、芸術的でないものに芸術と同等の評価を与えようとして使うということになる。この時点で、発言者は自らの認識と資質を暴露していることになる。本当に芸術を愛する人間であれば「これは芸術だ」と言えばすむ話である。が、ここであえて「アート」とするのは、主張する側が薄々それが芸術とは一線を画すると気がついているからであり、自ら自己の無用な劣等感を露にしていることにもなりかねない。その意味で日本での「アート」という表現というか主張は、とても評価できるものではない。芸術にやれることがなくなったので、アートという挑戦のような態度を取ることで新しいもの産み出そうとすることにも限界があるだろう。この現代日本人が「アート」という言葉に翻弄されるきっかけになったのは、サルバトール・ダリという道化の存在である。私はダリを天才扱いする人の判断を信じない。それは芸術作品を理解できない人の立場にみえる。
 そもそも日本文化が本来同じ"art "という言葉を「芸術」と「アート」という言い方で分割したこと自体が苦渋の選択だったのではないか。私は今のところ、日本人の90%は英語が活用できない方がいいと考えている。わざわざ英語という、より粗い表現単位をいれることで、日本文化を破壊する必要はない。言語はもっとも強力な文化の守護神であり、日本人においてはそれは日本語に他ならない。これを捨てる必要はない。
 ここには先述の芸術作品にどこまで現実を混入して許されるかという問題、ポリコレの問題も残されている。最近では愛知トリエンナーレの問題があった。「アートだからされる許される」という幼稚な理屈にさすがに一般の日本人も辟易した。その意味でもやはり、日本人の90%は英語が活用できない方がいいのである。一つの国家で二つの別系統の言語が繁栄することはない。私たちが「芸術」と「アート」という言葉を捨て"art "という言葉で一括しさらにそれを漫画も作れない民族と共有することになると、日本は、世界は、どこまで劣化することになるのだろう。



(続く)

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探究芸術と共感芸術 1/4 
第一章 探求芸術と共感芸術

【探求芸術と共感芸術】
 一般に芸術作品またはその鑑賞態度をそろそろ分類すべきではなかろうか。
先にざっくり記しておく。
探究芸術=象徴詩、クラシック音楽、ルネッサンス絵画、古典文学
共感芸術=ミステリー小説、俳句、サブカルチャー、映画、ジャズ

 すべての芸術作品とその鑑賞の姿勢は、この二つの曲の間のどこかにある。
たとえば、小説なら、ミステリー小説は共感芸術に近い。一方、今はそれほど読まれていない明治大正の純文学なら探究芸術よりかもしれない。

【探求芸術】
 かつての欧米文化を中心に、絵画ではルネッサンス以後印象派頃までの長い期間、音楽ではベートーヴェン登場頃までに、確立した芸術作品への視点として確立したもの。大衆的というよりは数少ない天才的才能を持つ作者がその人生の中で掘り下げて創作したもの。同時代の一般大衆にはわかりにくく後世になってから評価されることも多い。(作者がどのような意図を持っていたかは直接関係ない。)欧米でのこの視点は、音楽において「コンサートホール」絵画において「額縁」の概念を生んだ。作品は日常生活から切り取られ、「芸術」という形式を意識的に与えられた。強い形式への意識に守られており、作品と鑑賞者の距離感は、ある程度意識され、それゆえ、鑑賞者は周囲の現実や日常の感情から入るというよりも、作品に集中しその外部から隔離された世界に没入する性質が強い。
 人は他分野を学ぶことによって、自分が感じることの可能性を推察しなくてはいけない。探究芸術への姿勢はこうした精神である。そしてそれが人類を正しい方向に導くという点で、芸術の存在意義のひとつとなっている。

【説明がないとわからない芸術作品】
 「ピカソは説明がないとわからないのでは?」という意見がある。これは一種の探究芸術批判である。この質問者の場合はおそらく「日本にはアニメのような強力な共感芸術形態があるのだから、現在既に直感的には形骸化されたこうした「名作」を重視する必要はないのでは」という視点である。しかし、考えてみてほしいのだが、ピカソの絵画の説明を聞けば周辺情報が増え理解に近づくように感じられるかもしれないが、もとより芸術作品は説明を聞いて理解できるものではない。あくまで手がかりである。つまり、この質問者は、芸術作品が解説または理論的解釈によって、理解できるものだという前提に立っているという点で、本当の芸術体験は自分には今までにないと自己暴露しているようなものなのである。おそらくこの人にも、アニメ作品に感動し分析する瞬間はあるだろう。しかし、それ自体は、他の媒体、数字や言語による理論構築に頼って鑑賞しているという点で、探究芸術を体験したことがないということになる。たとえば「アヴェ・マリア」の単旋律の音楽を言葉で解説できるだろうか?シューベルトの伝記を読めば親しみは増すであろうが、それは説明にはならない。つまり、「ピカソは説明でわかる」という発想自体が芸術とは無縁の立場なのである。
 このような主張は、このような立場が、人間の可能性の未知の側面に蓋をして、自分達の思考媒体の枠の中でしか物事を許容しない姿勢にすぎないということになる。このような立場の人は自分が柔軟な思考の持ち主だと考えているかもしれないが、実は学校や社会で認められていることしか許容しないカチンカチンの頭脳の持ち主である。
 人は他分野を学ぶことによって、自分の感じることの可能性を推察しなくてはいけない。たとえば、マンガ作品のディテールをどんなに深く読み込んでも、一度距離を取って俯瞰し言語意識によって分析できないものを把握し直さない限りはそれは、ときには単なる「興奮」をも含んだ、あくまで共感芸術的姿勢である。カタルシスは得られるだろう。しかし、地の地平線を切り開くことはない。
 誤解ないように言っておくと、共感芸術が劣ると言うのではない。探求芸術作品と共感芸術作品はそれぞれに同等の価値があり、また、探求芸術への感動体験と共感芸術への感動体験も同様に存在する。

【共感芸術】
 大衆芸術、サブカルチャーなども含まれる場合があり、日本文化における、鑑賞者たち全員のコンセンサスがなんらかの形で得られる形態。(「みんなが同じように理解し感じ方を共有できる」と錯覚できるもの。)極端な例では、あいだみつを作品や俵万智作品などがわかりやすい。(日本では昭和初期に話題となった「第二芸術論」などもこれを扱っている)。一般の大衆娯楽から始まることが多いかもしれないが、共感芸術が必ずしも芸術作品として質が低いわけではない。元来、共感芸術の質が上がるためには、一国民・民族の高い意識が必要であり、それは日本でなければ難しかったという側面もある。世界最古の恋愛小説は紫式部の『源氏物語』だが、ダンテの『神曲』の300年も前に書かれており、しかも『神曲』以上に本物の小説であった。さらに、それが女性によって独自の大和言葉で書かれていて漢語がほとんどない。これらの特徴は、平安時代の貴族社会が文化的に成熟し、こうした作品を共感芸術として受け入れる土壌ができあがっていたことが大きい。共感芸術とは、大衆芸術とはイコールではない。鑑賞者の大半が、作品を作っている側も鑑賞している側も高いレベルでコンセンサスを得ていること、つまり「みな同じ人間」と思っている状況が前提である。この非常に高い人間平等意識(共通の文化的教養)があって共感芸術は高い次元で成立する。
 共感芸術はその作品のみならず、鑑賞者の存在に重きがおかれる。それは表現者に対する心からのリスペクトであり、その態度は人間に限らず科学的分野にも普遍的精神価値を見いだそうとする、真の文化的価値観を生み出す。

(続く)

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