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教育論8/8 知識の故郷としての学校教育 2024年04月13日
【文系・理系問題】
文系・理系の区別の問題は日本特有の文化である。多くの場合、数字の苦手な人が謙遜して「私は文系ですので」と言ったり、処世術に疎い論理家の人を「あの人は理系だからね」と受容したり摺るのにそもそも使われたはずだが状況が殺伐としてくると「これだから文系(理系)は困る」といった言い方に発展する。人間区分が分断に利用されないようき気をつけなければいけない。現代人は「あいつはバカだ」と言いたくてしょうがないのである。
一方で、よく海外の理数系の教授がTED などで楽器を弾きながら発表舞台に出てきたりすることがある。「この人もまた、『理数学者だから芸術がわからないだろう』といった偏見に対抗しているのだろうか」と思ったり、何よりも「別分野の人が軽々しく楽器を扱うのは芸術家へのリスペクトを欠いているのでは」と思ったりする。
他の国では文系・理系の区別の必要が出るほど文系が発達しなかったという言い方もできる。そしてそれが政治や経済など一部の社会では悪さを働いている。井沢元彦氏が「言霊の国、日本」といい、高橋洋一氏が「ド文系が国を滅ぼす」といったように、知識人が日本語の思考単位に縛られていることに警鐘を鳴らしている人もいる。ではそのような人たちは本当に、飛躍した打開案を持っているのだろうか。まずは彼らは目の前の問題と闘ってくださっているのである。
「本当は文系・理系の区別があるわけではなく、理数系が苦手な人と得意な人がいるだけだ」という意見もある。また「文系」の中には社会科学系と人文系があり、これは互いに近くて遠い分野である。
【理系の人は必ずしも論理思考をしていない】
よく、理系分野に携わっているから論理的思考をすると思い込んでいる人がいるが、それはむしろ逆かもしれない。なぜなら、理数系分野は既に数字によってがっちりと論理思考がずれないように設定されているので、その枠内で論理を働かせればよい。だから取り立てて論理的思考力は要らない。しかしながらNASAの職員その他さまざまな現場の技術者は、遥かに肉体労働的な頭脳を駆使して問題を解決しようとしている。またいわゆる「文系」分野の人々は数字という思考ユニットのないところで論理的展開をしなければならず、一般の理系の人々よりもずっと論理的思考をしているとも言える。その意味で、数字や科学に身を委ねているだけで「理系」を自認しさらにそれゆえに、自分が論理的な人間だと思っている人に、論理的な人はいない。
【日本人の若者の愛国心の強さ】
先日、台湾から日本に帰化した二人の学生が次にのように言った。彼女たちは高校2年まで台湾で過ごし3年で父親のいる日本に帰化した。
「日本人は愛国心が強いですね、戦争があっても団結しそうです」
日本人の友達たちが耳を疑ったのは言うまでもない。私が訊いた。
「学校で討論かなにかしたの?」
「いえ、日本で普通に過ごした感想です」
「でも、日本人の学生は君たちのように政治の話はぱっとできないよ、事実君たちはすぐに今度の選挙の話をし始めたじゃないか」
「それはいいんです。そういうことではなくて、日本人って自分の国や歴史に興味を持っているじゃないですか。それから父が引っ越しの時にお隣さんにお菓子をもって挨拶していましたから」
日本人学生は戦争反対を訴えながら実は、「自分が死ぬくらいなら何を捨ててでも自分だけは生き残ってやろう」と思っているかもしれない。しかしそれはどこの国の若者でも同じである。ただ、戦争というのは私たちに究極の選択を迫る。たとえば、2024年正月の日本航空機の火災事件の時最後まで冷静に行動した乗務員に世界が喝采した。規律を教えられたとかという次元ではない国民性の証である。
「たぶん私の国が中国に占領されたら多くの若者は『自分が死ななければどっちでもいいや』と思うでしょう」
極論かもしれないが、これらは彼女たちの言ったままの内容である。
日本人が古文漢文や日本史を通じて自国を愛していること、そして引っ越し先の見知らぬ隣人を同じ人間とみなして共存しあおうと尽くすこと、これらは彼女たちには新鮮な驚きだった。
「だいたい教える歴史が日本ほど長くないんですよ」
【知識のふるさととしての義務教育】
義務教育は、今までに語ってきたように、即座の有効性より「知識のふるさと」でなければいけない。次に私が気がついた小さな意見を列記しておきたい。
◯ 小学校の間にクラシック音楽と古典美術を体験する
幼い時に感じとったものが感性や思考の単位になっているとやはり有利である。「芸術は好みだろう」というが、大抵の人が青春時代までに知った音楽や芸術を自分の好みとしている。それ以外は感じて好きになることすらない場合がある。大人になってから自分で選択するのは構わない。しかし選択どころか頭にも浮かばないということでは、さらに広い人間の判断の場面で違いが生じてくるだろう。「よく知らなかった」という不足感でも十分だ。立派な知的判断を作る。「本来良いものだが、自分は不要だと思い選択しなかったもの」をいかに増やすかが、人間の総合判断を作るのだ。
◯ 古都を訪ねる
修学旅行などと行っても実際には、先生の目に隠れて現地で友達とショッピングしたり遊んだりしているだけだというが、それでいいのである。たとえば、海外で「あなたは京都を知っていますか」と聞かれたとき、行ったことがあるのとないのでは確信の度合いが違ってくる。私たちが実際その場に行き等身大でその空間を味わった経験が大事なのである。それが言葉やデータだけでは補えない情報をもたらすのだ。
◯ 高校までに海外留学をしよう
外国語を学びとるには圧倒的な強みになる。高校までは事実上「子供」扱いである。学生はホームステイ先で「ママ、アイム・ハングリー」と寝転がることもできる。つまり第二の故郷となる可能性が高いのだ。もちろん言語習得にも有利である。私は今も英語を話すときに高校留学生だった自分をどこかで意識する。大学生以降になるとなかなかそうはいかない。一個の大人としての遠慮も生じる。よく大学で充実した留学体験をした帰国生に、後輩たちの前で体験談を話してもらうことがある。最後に私は聞く。
「では、あえて言えば、もう少しやりたかったことはありますか?」
「・・・あえていえば、もっと遊びたかったかな」
逆の立場に立って、海外から日本に来た留学生に、学校や家に閉じ込もって勉強させておくだろうか?いや、あちこちに遊びにつれてゆくのではないだろうか。日本が彼らにとっての第二のふるさとになってほしいという想いがあるからである。
また、尊敬すべき知識人の立派であるはずの意見が、私たちに「ん?これは違うぞ」と感じさせるとき、それはだいたい海外体験のない人が普遍的問題を語っているときだ。日本は高度な翻訳文化システムを持っていて大抵の情報は日本人感覚でなんとかなる。しかし、海外でだけで感じとることができる、ある人間ともう一人の別の人間とに横たわる圧倒的な違い、というものだけは、体感できない。これに基づく差別問題もわかりにくいであろう。これらに気がつかないと、どこまでいっても根元的な意味での「人間とは」という問題に、普遍的な視点でアプローチできない。これらを国内にいながらに処理できる卓越した知的想像力を持った人もいるが、それは私たちが万人に要求できる特技ではない。海外を体験していないということは、「人間」を論じる時に、他者を「自分と同じ日本人」の枠で論じることになる。(「日本国内にいる外国人は?」というが、その場合彼らは一種の日本人の状態である。)
日本人の素晴らしいところは、他の民族も自分達と同じだと考えるお目出度いところである。そんな日本人の国民性を大切にしたい。だからこそ、「日本人の90%は英語が話せなくて良い」のである。そして若い人にはなるべく高校までに留学していただきたい。
◯ 学校でのボランティアは義務化してはいけない。
「ボランティア」という言葉に違和感を持つ人も多い。人を助けることを表す名詞の使用は日本人的ではないからだ。日本人が中学一年で覚え、使う機会がほぼない英語表現に"You are welcome "がある。「どういたしまして」とわざわざ言うメンタリティーがないのである。
ボランティアの発想は、資本主義とプロテスタンティズムが結び付いた結果として出ている。清貧と勤勉を貴び、競争社会で人を押し退けながら、働き詰め、ふと気がついた時に彼らは「そうだ、ボランティアだ!」と気がつく。彼らにとって善行は意識されるものらしい。日本人は、善行日頃の生活のなかで人知れずやるものであり、恩着せがましいものに見られたくないという恥じらいがある。童話「ゴンギツネ」などもその例である。立派なことをした人間を称賛はしたいが、自分でやると、他人との人間関係上の優位に立つようで、避けたいという心理である。「ハッハッハッ、当たり前のことをしただけですよ」なんて、間違っても言えない。世界一の金持ちの一人ビル・ゲイツのプロフィールも「慈善家」である。それに比べZOZOTOWNで知られる前澤氏は、日本人一流の照れから、あえて金満家を気取っているのかもしれない。
そのボランティアの概念が学校教育に導入された。悪いことではない。日本の学生たちも柔軟である。決して驕ることもない。それは日本文化の教育システムの中にある活動だからである。しかし、現在、推薦入試の査定のためにボランティアはほぼ必須・強制である。長い目で見てこれが健全だとは私には思えない。
◯ 日本の大学では遊ぶべきである。
日本人学生は高校まで勉強ずくめだ。どこかでガス抜きが必要である。
かつて、日本の大学生は遊んでばかりいると、テレビで批判的に報道される時期が続いた。そして興味深いことに、Fランと呼ばれる偏差値的には高くない学校の学生たちが特に批判をした。どこの大学でも同様の当時の緩い雰囲気が、自分達の学校だけだと思ったからである。旧帝大系の学生などは勉強など自分でやるものだと心得ているし、大学教員へのリスペクトが先行し、あまり批判的にはならない。これらの運動の結果、大学は厳しい勉強の場になった。私は個人的には、高校まで勉学に励んできてようやく一里塚に達した若者たちには、今まで蓄えてきた教養を自分なりの自由なやり方で楽しみながら利用する時間を与えてあげたい。日本の若者は人生のどこで息を継ぐのだ?東大から電通に入り自殺した女性、痴漢をはたらいたエリート公務員など、私たちが「どうしてこうなったのかしらねぇ~」と答えが得られないとき、このようなところに答えがあるものだ。
◯ 「やる気スイッチ」の危険性
大手中学受験塾の広告マンの台詞に「中学で駄目だったら高校でもう一度チャレンジしてもいいんです」というものがあった。教育とは無縁の、心ない言葉ではないだろうか。子供は一回だけの青春の貴重な時間を割いて全力で受験する。大人と違ってリミッターがかかっておらず、本当に全力で挑戦する。その結果が良くても悪くても、とにかく子供は真っ白になっている。そこにもう一度やれというのはあまりに残酷である。一年頑張ったのなら三年は遊ばせたい。受験に「じゃ、もう一度」は利かないのである。
同様に最近普及した言葉「君のやる気スイッチを探そう」というものも同様である。子供はロボットではない。しかもそれを外から入れるのか。大人が気に入らないスイッチの入りかただったら、また入れ直すのか。本当にスイッチを入れたかったら思う存分有意義な遊びをさせることである。
私はこんなことを書いているがそれは理想論であり、たいていの子供は遊び方も人生の意義も見いだせずに弱いものをいじめたりその他の悪さをしたりするケースも多い。であるから、万一「やる気スイッチ」が入って伸びたのなら、資質としてどうしょうも無い子が一人助かったということになる。それだけである。悪いことではないが、お粗末である。
今では「人生で大切なことは全部ゲームで教わった」という実業家もいる。これもまた推奨はできない逸話ではある。なにはともあれ集中力は育ったのだろう。
◯「教師は社会経験がない」という論はあまりに幼稚
多くの人が「教師なんて社会経験もないくせに子供に偉そうにものを教えるどうしようもない人格だ」的な発言をする人がいる。一時期よりは減ったと思うが昭和の時代には誰もが使う当たり前の言い方だった。それだけ先生の権威が保証されていたのかもしれないが。実際にどうであろうか。教員は本当に社会経験が少ないのか。それは考えにくいだろう。一日中チケットのモギリで頑張っている人もいれば、がらんとした田舎の量販店で一日一人か二人しか来ないお客を相手に暇を潰している人もいる。それも立派な労働であるが、そのような人に比べて、教員の方々が社会経験が不足しているとも思えない。早朝から子供たちの模範をつとめ、モンスターペアレントに対応し、反抗期の子供をなだめ、40人もの子供たちがトラブルがないように見守り、さらに授業と採点である。しかし、世間にはしたりがおで「先生というのは自分は学校という狭い社会の中から一歩も出ず無抵抗な子供に講釈をたれるだけの存在」といまだに言う人がいる。さすがにこれは自分の幼少期の教師への反抗心を自己分析できないままに大人になってしまった人の弁ではないだろうか。それは映画製作について、スクリーンに見える映像からしか判断しない人と同じであり、街中で偶然会ったお笑い芸人をいきなり罵倒したりするような水準と変わらない。このようなことを平気で言える態度を、知性や教養の一つの試金石にしてはいけないだろうか。
先に「先生」ブランドの重要性について書いたが、このような子供じみた人たちが教育社会を悪くしているかと言えばそれほどでもないようだ。世の中には立場と地位でしか人を判断しない人がいてその人たちと同レベルでの均衡を保ち、実際の教師についての本質論からは離れているようである。それよりも恐ろしいのは「先生」という言葉が使われなくなることであり、時には先述の部活外注アスリートなどが学内に入りすぎることで、先生ブランドのバランスが崩れることである。通常生徒たちは柔軟である。しかしながら、反抗期を消化できないまま大人になった知的貧困層が一番の地雷元になるのではないかと考えられる。
【知性とは】
ここまで教育の観点から、人間の知と総合判断について語ってきたが、まとめとして、「知性とはなにか」について私の意見を述べておきたい。私は「知性」とは「気がつく」ことだと考えている。それは人間が自然界の一個の動物である限り越えることができない認識の限界を何らかの形で越えることである。この「認識の限界」のことを私たちは「本能」と呼んでいる。私たちは何らかの形で物質的現実および認識を越える瞬間を持たなければ、動物の状態にとどまる。これらの限界のそとにあるものに「気がつく」ということが知性である。
「気がつく」ために教育はある。そして、知性の飛躍、気がつくこと、価値観を転換させることこそがこれからの人類を救う。決して自分自身を救うという意味だけではない。世界的な人類の判断を変えるということである。
私たちはモノに対しては比較的簡単に越えることができた。これが自然科学である。これによって多くの人が驕り高ぶった。たしかにそれほどまでに刺激的なものでありそれだけの成果を得た。しかし人間に対してはどうであろうか。これはまだ成果は十分ではない。ある人はそれを「悟り」といい、ある人は「自己承認」と呼んでいる。これらはほぼ完全に私たちを導いてくれるに違いないが、人類全体への汎用性が弱い。または歴史とともに弱い位置におかれてしまっている。私は人類に与えられた手段は、芸術哲学と、人間の時間的視点からの分析だと思っている。前者については前章までで述べた。後者については次章で述べる。
芸術に象徴される人間の美意識は自分と他人を比較しないためにあるとも言える。一人一人が独自の時間の中で生きることである。その意味で、時間は作るものではない。忘れるものである。そして現代人が最も必要としている知性のかたちである。
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教育論7/8 非合理な教育について 2024年04月10日
【日本の翻訳文化について】
かつてバウムガルテンの『美学』という本を地元図書館で借りたときに驚いたことがある。「1987年世界初訳」と書いてあった。文字通り解釈すれば、このもともと古ラテン語で書かれた18世紀中頃の文献をそれ以外の言語で読んだのは日本人が初めてだということではないか。そんなことが可能な数少ない国の一つに私たちはいるのである。
明治以降日本は世界中の文献を凄まじい勢いで翻訳してきた。難解なハイデッガーの『存在と時間』など現在6種類の訳が出ている。日本人は英語が苦手な代わりに日本語として取り込むかたちで海外の学問や情報を吸収してきた。
たしかに今まではこれで十分だったのだ。それがインターネットの普及と巨大メディアの偏向報道の影響で日本の旧来の文化システムに甘んじている場合ではなくなった。テレビの衰退によって、皆に共通に翻訳されたものを見聞きしているだけでは間に合わなくなってきたのだ。結果、海外の情報はさまざまなニュースサイトの翻訳を読むことでかろうじて補われるかたちである。特に動画配信サイトでの個人の活躍など目覚ましいものがある。
私は「日本人の90%は英語が話せなくてよい」という主張を掲げているが、それは「日本人の90%は英語がわからなくてよい」という意味ではない。自分で海外ソースにあたるだけの姿勢はどうしても必要になってきている。しかしそれでもなお、このようなメディアの腐敗・劣化程度の風潮によって、日本人が日本語を疎かにする必要はないのだ。私たちはこれを補うべき過渡期にある。
【エジプトで採用された雑巾がけ】
日本の義務教育のユニークさは、世界で、特にアラブ諸国では注目されている。ある中東の教師が留学生として日本に来て、一年後に帰っていった。彼は母国に帰り、まず日本の雑巾がけを導入した。当初は父兄から「うちの子供に掃除をさせるのか」とクレームが殺到したそうである。しかしそれもものの数週間のことであった。子供たちが学校で雑巾がけをするようになってから、急に親の言うことを聞くようになったのだという。
雑巾がけ以外にも給食の配膳や、担任制、部活動など、他国にはない特徴が多くある。もう三十年近くも前のことだが、現地中国人の友人とチャットをしていたときのこと彼が私の話しぶりから次のような質問を怯えたようにしてきた。
「ミスター上田、その『部活』というのは本当にあるのか?」
彼は日本に来たことはないが、日本の漫画やアニメが大好きで詳しい。
「もちろんあるよ。君だって知っているじゃないか」
パソコンの向こうから彼の動揺が伝わってきた。
「いや、俺は日本の学園ものアニメは日本人が『こんなユートピアがあったらいいな』と創作したものだと思っていた。俺は高校生のとき勉強ができたから、ライバルに抜かれないように、寒い図書館で独りで受験勉強をしていた。部活、本当にそんなものがあるとは思わなかった!」
現在でも、ドイツからの留学生の日本での最初の一週間は、スマホで学校の動画をとりまくって、故郷の先生や友達に送り、「マンガと同じだったよ」と共感し合うことですぎてゆく。
これらのことからもわかるように、私たちの学校生活は、かなりユニークなものなのだ。
【非合理な校則について】
やれソックスは白に限るとか、丸刈りでなければいけないなど、学校では意味のない校則は多いかもしれない。こうした非合理的な校則の押しつけによって、おとなしくて骨のない日本人が量産されることになっている。それは事実かもしれない。
校則についていえば、これだけの弊害がありながらも私はこの非合理的なものを特別に悪いとは考えない。日本では、これを民主的に訴えて変えて行く方法はいくらでもあるからだ。学校に行かないという選択もある。この時点で、こうした悪習は、独裁的強制ではなく、変更可能な試策にすぎない。すべての教育上の試策がうまくいくとは限らない。まずい悪習も多くあるだろう。うまく行かなかったところだけを見て、本質論(「校則否定論」)にすり替えることはできない。
また、「学校教育は元々軍事教育と産業革命後の低賃金労働者の確保のために作られたので、そもそも思想からしておかしい」という意見もあるが、起源がおかしいから現代においてもおかしいとする思考こそおかしい。これは、体制の不備を批判することで、若者や心ない大人の「反抗心」を煽っていることになる。(この「反抗心」というやつは、心の暇な人にとっては蜜の味である。自分を正義と仮定し、絶対やり返してこない安全な敵に、日頃のストレスを晴らせるのだ。だから卑怯な大人たちは若者を煽るのである。)
校則を守るようにしつけられた人たちは、突出した才能の足を引っ張ることもあれば、集団活動全体の効率を著しく低下させることも多い。このような人たちの多くは、実際に規則を遵守せよと押し付けてくるのはもちろんだが、それ以上に、「規則を守る態度」を押し付けてくる。その背後には、原始人的な恐怖心か、排他心がある。であるため、この愚かで単純な本能は、権力に利用されやすい。
つまりは、見苦しい思考停止状態なのであるが、これは本当に規則の押しつけからだけ起きたのだろうか。私はそうは思わない。思考停止は頭を使わない人に等しく起きるからだ。
このような人たちに「規則を守る態度」を教えずに、先行して「自由(と称されるもの)」を与えるとどうなるだろうか。他国で結果が出ているではないか。他国で地震がおきれば、ストレスがたまれば、「自由」と称して、街のうち壊しをはじめる。私たちにはそれがなぜ「自由」なのかわからないが、恐らくは何らかの「自重」とは正反対の概念である。先日も動画で、サンフランシスコの町並みを破壊して興奮している女性が「これがアメリカ、これが自由なのよ!」と叫んでいた。しかし、次の瞬間彼女は他の暴徒に髪をつかまれ、殴られていた。なるほど、他人の店を壊す自由もあれば、殴られる自由もあるというわけである。
規則の遵守を言葉だけで伝えることは難しい。いろいろな価値観と思考力の人間たちには、それよりも「規則を守る態度」を教えた方が早い。自由な国に住んでいればあとでいくらでも修正がきくからである。ちょうど湯川秀樹が論語を覚えたのと同じである。無駄なら直接使わなければいい。しかし、自己を律する精神は、使いこなせればどの分野でも有効である。
それよりも、現代までに複雑に文化、習慣、禁忌が絡み合いここまできた日本の環境において、まるで単純な足し算引き算が可能であるかのように「これをこうすれば良い。簡単なことだ。どうしてみんな気がつかないのだ?」と無責任に吹聴するインフルエンサーには自重願いたい。失ったものを取り戻すのは容易なことではない。
【部活動に専門アスリートはいらない】
学校の先生方の負担が大きい。教科を教える他にクラス担任、素行指導、モンスター・ペアレンツへの対応など、心身ともに休まる暇がない。その上週末まで生徒のスポーツ活動の遠征に駆り出されるのではたまらない。ということで、部活は外部の専門アスリートに委託すれば良いという意見がある。コストの問題はあるが、なによりも優秀な専門家によってその学校は県大会に出られる可能性が高くなる。教員も休めて、良い指導も受けられるから一石二鳥だという考えである。
教員の休息の問題は残るが、私はこの意見に反対である。学校は、そのスポーツに親しむ入門の場であって、運動選手養成所ではない。雇い入れられる専門アスリートも外部委託である以上成果を出そうとする。しかし、それでは「面白そうだからちょっとバスケやってみようかな」「やることがなかったけど先輩に誘われたから」といった機会とか「バレーボールやって楽しかったけど、うちら全然弱かったね」といった思い出は失われる。どうしてこの様なところまでに「競争原理」を入れようとするのだろう。すべての学校が県大会出場を目指すためにここでも頑張らなくてはいけないのか。学校は総合学習の場である。学校でのスポーツも基礎教養の一環にとどまる方が良い。
【英語は簡単だから普及しているのではない】
この世界で本当に平等な共通語を作ろうというもくろみからエスペラント語が作られた。エスペラント語は考え抜かれた、ある意味最も簡単な言語であり、今でも存続しているが、それでも決してメジャーにはなってはいない。言語を背後から支える文化がないからだ。私たちが英語を学ぶのは、一つには大国による権力と経済的関係による押し付けの結果であるが、もう一つ庶民からの視点ではたしかにアメリカやイギリスの文化的な魅力から来ている。ロック音楽やハリウッド映画他、文化に興味を持てなければ、言語習得は大成しにくいし、そもそも意味が見いだせない。その興味とは前の章でお話しした「リスペクト」であり、それは一国の文化的国力である。
学問はリスペクトがないと上達しない。会話習得は要不要論が先行する。日本人は学問好きなので、前者の視点で英語を学ぼうとする。一方、ただ話すだけなら、後者、つまり話さないと生活に困るような環境が必要である。しかしこれは日本では得られない。不可能的である。であるから、日本人学習者はリスペクト志向になる。これが先の章で説明した「翻訳の壁」を自ら作るということになる。最も知的な勉強法は、その言語の会話習得に最も不向きだということになる。しかし、日本人の堅固なリスペクトフルな習得法は決して無駄にはならない。だから日本人は挑戦を続け、いつかは漢字をモノにしたように英語を自分達のものにするだろう。
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教育論6/8 暗さは知性だが 2024年04月06日
【でも、なお日本の若者は暗いではないか】
ここまででもなお、私たちは疑問をぬぐいされないであろう。なぜなら、それでもなお、暗い学生生活を送ってきた日本人は多くいるし、自殺に追い込まれた人もいる。他の国でも幼少期・若年期の悲惨は同様に見られるが、それを言っては、相対論に逃げることになり、論としては負けである。経験が少ない若者たちに、今生きているということがどれだけ幸せかということを、話したとしても、わからなくて当然である。また、何はともあれ、目の前の若者たちを救えなければ、大人たちにとっては敗北である。日本の若者が暗いのは、一見競争が激しいからのように見える。過度の競争は多くの人間を傷つけることは間違いない。しかし、私たちは、知性を蓄えるということが本質的に、大多数の人間の心に暗さをもたらすという皮肉な側面があるということを再認識しなければいけない。
【世界一幸せな国は無知な国】
現在世界で一番幸せな国はフィジーだそうである。インタビュー動画を見ても、フィジーの人々は「あなたは幸せですか」という問いに皆ほとんど即座に「幸せだ」と答える。その声と表情は嘘偽りのない心からのものだと感じさせる。しかしこの国は今過疎化が問題になっている。教育制度は薄く、今はたしかに幸せだが、未来への不安から海外へ留学や出稼ぎに出るのである。人は幸せなだけでは充足できないのだ。少なくとも現代人は自己の可能性を追求し、未来への不安を取り除かないと、落ち着かないのかもしれない。
発展途上国に行った先進国の人々は、皆現地の子供たちの明るさに驚く。こんなに貧しいのにどうしてこんなに明るくしていられるのかと。それは無知だからである。無知くらい、今の瞬間に人を幸せにするものはない。日本の子供たちはその点、宿命的に不幸である。将来のことを考えた大人たちが子供の無知を放ってはおかないからである。そうして、日本は世界でも有数の経済と物質の安定した国であり、長寿国なのである。これは他国との比較相対論ではない。人類それぞれに突きつけられている究極の二者択一なのである。
ちなみに、先の発展途上国を訪れた学生たちが、もうひとつ、必ず言う感想がある。それは「発展途上国に行って、お金があるだけが幸せなのではないということに気がついた」というものだ。こうした若者たちは、では、その国に留まって「幸せ」を享受するのかといえば、まずそうではないだろう。彼らはお金が好きで好きでたまらないので、お金がなくて楽しそうにしている他国の子供たちが不思議なのである。そして大抵の場合、こうした国々にレジャー感覚以外で行くつもりはない。ある意味、自分と彼らは違うと思っている。これは日本人の子供たちがいかに資本主義に汚れてしまっているかをよく示すものである。この言葉を吐く日本の子供たちはたしかに不幸である。しかも自分の不幸に気がついていない。そして不幸に気がついていない分だけ幸せであり、愚かであるに違いない。
【未来志向の若者は弱肉強食が大好き】
多くの若者が日本のこの苦しい受験システムに疑問を持ち、先生が上から一方的に教えるだけだと感じられる生徒と教師の距離感に疑問を持っている。海外の学校を体験してきた子供たちはみな無邪気に言う。
「あちらでは先生が生徒と同じ視線で対話するように授業が進んで、とても有意義だった」
私も嬉しくて「それは良い体験をしたね」と答える。すると次に生徒は大抵
「日本もそうすべきだと思いませんか」と聞く。
そんなとき私は、講師室に遊びに来た卒業生(先の生徒の先輩に当たる子たち)が言っていたことを伝える。
「就職先の職場環境はどうですか?」
「私は英語も表計算も、会社のおじさんたちよりずっとできるのにお茶汲みばかりなんです。あの人たちが高給取ってて私が安月給なのは納得がいきません。その人たちがいない方がはかどるのに」
私は「実社会は複雑なんだよね」と同情する。
この話をしたあとに、私は先の受験生たちに聞くと、「まったく先輩のいう通りですね」と頷く。
私はそこで彼らに言う。
「君たちは今競争に勝ち抜いた先輩たちに共感し、自分達については競争は良くないと言っていることになるよ。それは自分が勝っていたら弱者をくじき、自分達の先が見えないと競争を嫌う、ある種の残酷な態度ではないのかな」
逆に受験戦争のない文明国では、社会に出れば完全に実力主義である。弱者は否応なしに切り捨てられる。そちらが良いのだろうか。それは一握りの勝者だけである。これを社会的格差と呼ぶ。
自信のある未来志向の若者は無邪気に弱肉強食社会を選ぶ。それは格闘技のファイターがみな「自分が世界一強い」と信じてリングに上がる姿にも似て、眩しいものである。しかし、日本の大人たちはそんな無責任な思想は許しきれない。厳しい競争社会があるのなら、体力のある若いうちに学校という安全な環境で体感してもらい、大人になったら比較的安定した環境で私利私欲にとらわれずに働くというのも良いのではないか。高校まであまり競争をさせずに社会に送り出したら決して偏差値や素行点だけでは済まされない、騙し合いと犯罪ギリギリの行為まで混じった競争社会に放り出すということが全面的に良いのだろうか。
【日本と欧米のクラス授業の比較】
先の、なぜ、安易に日本式の授業システムを捨て、他国の授業システムを採用するべきではないかについて少し説明しておきたい。まずは世界から注目されている基礎教育(雑巾がけ、クラス担任制度、部活など)の貴重さはもちろんであるが、中卒であれ大卒であれ、果たして社会に送り出したときにどのような差が生じているだろうか。
アメリカの番組で、道行く人に世界地図を見せ「どれかひとつでも良いから、地図を指して国名を言ってください」というクイズを出す特集番組があった。その番組の場合はたった1人の(おそらく仕込みの)少年以外は誰も一国も答えられなかった。中には自国のアラスカを指して「グリーンランド」と言った人もいたが、大半が適当なところを指して「アフリカ!」というだけで、「それは国に名前ではありませんよ」と言われていた。これは決してスラム街で行われたわけではない。かなり上品な服装の人々だった。自国と他国の区別もつかない、そのような人たちが「日本はこうすべきよ」と上から目線で言うのである。ヨーロッパでは、「世界史」と言ったらほぼヨーロッパ圏の歴史だけである。それが彼らの「世界」である。フランスの場合なら世界史では日本については「被爆国」というだけしか出ない。日本人に「世界史についてなにか知っていることを教えてください」と聞けば大抵の人が「私は世界史はほとんど知りません」と恥ずかしさを隠しながら言うであろう。それは日本人がかなりの量の世界史の知識を知っているということである。日本人は少なくともナポレオンもバイキングもリンカーンの名前も知っている。人は専門外の知識については勉強した人ほど「なにも知らない」と言い、勉強していない人ほど大風呂敷を広げ「知っている」というものなのである。そのような知識水準で、教師たちと「同じ目線」で語り自己主張をするとどのような社会ができあがるか、考えた方が良い。日本人学生は自分の意見を堂々と言わないというのはたしかに本当であるが、難民対策、CO2問題、電気自動車など、よく調べないうちに理念的自己主張を繰り返す気質を許す教育のために、欧米が自分達自身をどれ程滅茶苦茶にしてきたか考えた方が良いのではないか。
【居場所】
自殺率の高さの理由は、北欧では日照率、中央アフリカでは貧困、という具合に国や文化によって変わる。日本の場合は、何だろうか。もちろん一つの理由に断ずることはできないが、一番大きな問題は「孤立化」であると思われる。
テレビなどの大手メディアでは、子供が自殺したというとすぐにいじめの問題を取り上げるが、それは一因に過ぎない。なぜなら多かれ少なかれどの国にもいじめはあるし、しかも他の国の場合、日本人が体験したことのない「差別」という問題もある。日本は差別は非常に少ない国である。(そのことは海外に一年以上過ごした日本人とだけ語りたい。)しかし、その分だけ日本に自殺が少ないわけでもない。いじめにせよそれ以外の原因にせよ、自殺の理由は何であろうか。それは逃げ場がなくなることであり「孤立化」である。
一つには、子供たちにとって学校と学校に通わせている核家族の両親だけの環境が逃げ場をなくすということである。
もう一つには、日本という国全体をみたときに、先の偏差値に象徴される平等で一律化された価値基準が頭に刷り込まれることによって、自分の居場所がなくなることである。
たとえばあなたの職場の人たち十人があなたと同じ能力を持っているがただあなたを除いてはマシーンのようにミスだけはおかさない人たちだったとしよう。そしてあなたはその個性からたまたまつまらないミスをしてしまったとしよう。その場合、同僚たちはあなたをそのちっぽけなミスのために居場所がなくなるほど批判の目を向けるだろう。もしそのときに誰かが「わかるわぁ、私も前に同じミスをしたのよ」と言ってくれればそれだけで緊張は溶解する。「居場所」というものはその人の失敗も含めてまるごと受け入れてくれる場所である。それは、あなたのおばあちゃん、学校の保健室、教会の懺悔室という場合もあるが、現代においてはそれが得られにくい。これは現代の非婚率の高さにもいえる。現在は「婚活」ブームであるが、これは決して成功率が高くない。年収や年齢、将来性などで条件が決められた時点で通常男性側のプライドはズタズタになり「自分でなくてもいいのだろう」という不条理な劣等感に苛まれるからだ。
比較が人を不幸にする。一律化によって精神的孤立化が生じるのだ。これは新型コロナ禍における異常なまでの芸能人不倫バッシングなども同様で、一律化された基準を押し付けることによって、自分の精神的緊張の捌け口にしている例だ。インターネット上の炎上も同様で、ターゲットにされた人は職を失い自殺寸前まで責め立てられる。日本にはたしかにその意味で逃げ場がない。
友人のドイツ人が「日本人は素晴らしい民族だがファシスとでもある」と言っていたのを思い出す。規則を守る姿勢のみを過度に重視し、それでしか人を判断しないのは、たしかに日本人の大欠点である。
自他を比較し孤立化し居場所がなくなること、これは自分や他人を自ら「選択」できると思っているからであり、人間とは「受容」するものだという視点が失われているからである。沢山のことを知ることは、選択の意識を先行させ、多くの場合、受容の力を弱まらせる。今やこれを本当の頭のよさだとは言うべきではないのだが、特に集団になるとこういう性質が知性の特徴だと錯覚するというのも事実である。そのため、「無知」こそが「幸福」を生み出すのである。そして、知識を有しながらも幸福でいられるためには、「人と自分を比較しない」という強靭な精神力が必要となってしまう。
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教育論5/8 学校は役に立たないことを勉強するところである 2024年04月03日
【湯川秀樹の幼少期】
ノーベル賞授賞の湯川秀樹はその自伝によると、五つか六つの時祖父から漢籍の素読を強制されたという。四書、五経を意味もわからずに暗唱させられたのだ。もちろん修学前の子供にとって、苦痛以外の何物でもなく、緊張がつづけば、疲労、睡魔におそわれ、辛い時間の中で機械的に祖父の声を追っていただけだったと言っている。しかしそれでも湯川自身はこの素読をむだだとは思っていなかった。意味も分からずにはいっていった漢籍が、大きな収穫をもたらし、その後、大人の書物をよみ出す時に、文字に対する抵抗が全くなかったという。漢字に慣れる。慣れるということは怖ろしいことで、ただ祖父の声につれて復唱するだけで、知らずしらず漢字に親しみ、その後の読書を容易にしてくれたという。
このように一見科学とはまったく関係のない学習訓練が大きな成果を生んでいる。
この学習について、直接的には、湯川はのちにも、素粒子理論研究を老荘思想に結びつけ、素粒子世界を、荘子の「混沌寓言 」の「混沌」という状態に結びつけた。
また、のちの教育研究者たちは、ここから、幼児期の素読の訓練は、吸収力がまったく違う頭をつくりさらに創造力も抜群になるのだと主張している。
しかし、これらのいずれも、のちに人間が結果から考えたものであり、人間の脳の可能性の一つの具現化されたものに過ぎない。おそらくは、漢籍素読の効用の無数の可能性の表出の一つにすぎないのだ。
【古文漢文・歴史の価値について】
古文漢文について「当時の人の発音で読んでないではないか」という意見があった。(これもまた有名インフルエンサーの弁であるが、さすがにこの浅薄さには驚いた。)現在の学習者の誰も当時の中国語会話に興味を持ってはいない。古文漢文学習が過去の遺産をいかに自分達の言語や意識で取り込むかという作業であることすら気がつかずに主張している人が今もいるようだ。これは私には大変不思議であった。
現代の中国の留学生は、日本人が漢文を学んでいると聞いて驚く。それは最初は自分達も捨ててしまいかけている、過去の自国の遺産を隣国の日本人が熱心に学んでいることに対する素朴な驚きなのだが、次に日本の学生が「違うのよ、私たちは中国語は読めないの。ただ日本語で読み直しているだけなの」と謙遜すると、さらに驚くのである。それは日本人が他国の文化をすべて自分達のものとして吸収している姿であるからだ。
ベタな回答をすれば、古文や漢文は、現代人が遠い昔の人と感情や意見を共有できる、言わば当時の人たちの感じ方をダイレクトに味わえる、貴重なツールである。そして歴史とは、たとえば当時、知力、体力、家柄、運などすべてにおいて最強だった人物でも、失敗したり悪人になったりしてしまう、そんな貴重なサンプルを豊富にみられる知識の源である。さらにそれが日本史であれば、共感の度合いは強まり同じ日本人としての感情的理解は高まる。これこそが知的財産である。その点では、どのようなヴァーチャル・リアリティーの情報よりも貴重である。
【知識詰めこみ教育の貴重さ】
歴史に関しては、歴史的事件の年を暗記させない傾向にある。文科省の方策がいかにおろかであるか、再認識させられる。幼少期は人間が丸暗記が得意な貴重な時期である。この時期に覚えたものは、それがどのような素材であれ、事実・真実にどこか基づいたものであれば、後の考える核となる。暗記の過程で論理的脈略がないものが特に推奨される。歴史の年号などは特にうってつけである。
最近歴史的情報が根本から間違っていた、たとえば足利尊氏の風貌は別の人のものだったといった情報が出る。「では、あとで間違っていたとわかるかもしれないものを教えるのは良いのか」という問いもある。しかし、それよりも学習者が学んでいるその時代に最も真実らしいものを事実として習得すること自体に高い価値があるのである。つまり、後に「大人に騙された!」と思わない習得が大切なのである。
それにそもそも科学も法学も「あとで間違っていることがわかるかもしれないもの」であることに変わりはない。科学は「反証可能性」が一つの定義ではないか。それを「イイクニ作ろう鎌倉幕府というのは間違っていたんだよね。だから歴史など、、、」と言った視点がいかに愚かであるか猛省されたい。もし後で間違っている可能性のあるものを削ってしまったら、すべての人類の知的財産の価値は相対的な天秤の上に乗ることになり、真実としての価値は消える。そして、子供たちに教えることがなくなることにどうして気がつかないのか。
私たちにとっての「知」とは、その時代にできる限り誠実に追求された事実を学ぶこと、それによってその周辺の文化的状況をも含む、真実への誠実な姿勢を体感すること、そしてさらにそれらから自分にとっての「真理」に近づくこと、である。
ある人気インフルエンサーが「古文漢文教育を重視する人は馬鹿にみえる」と言っていたが、その形容はそのままご自身の自己紹介になってしまっている。古文漢文を重視しないということは一つの視点として考えて良いし、発言することも良い。しかしそこから一気に相手の知性の否定にまで行ってしまっているところは、まさに古文漢文のような分野を単純に軽視する人の知的態度だということになってしまう。何かを判断するときに、自分の守備範囲以外の分野に対する想像力が欠如し、相手の知性の否定にまでつながる態度、このような人間にならないために、私たちは一見役に立たない分野まで学び、すべての分野への知的姿勢を備えようと試みるのである。(かく言う私も人に対してこのような否定的発言をしかねないので、このインフルエンサー氏と同じ穴の狢かもしれないが。)
【学校はすぐに役に立たないことを勉強するところである】
日本の教育は役に立たないことばかり勉強させ、その結果、暗い青春を送っているというのが、一般的な日本の学校教育への批判であろう。これらのことについての根本的な理解の間違いは、学校が「すぐに役に立つ」勉強をするところだという短絡思考から来ている。実際には、少なくとも高校までは学校は「すぐに役に立たないこと」を勉強するところである。
ではなぜすぐに役立つ学習を中心にすべきではないか。役に立つ情報はすぐに古くなるからだ。すぐに役に立つ情報は、現在の現実と大きな「接点」を持っている。いわば科学理論における「実用化」の概念である。その接点は、背後にある思想や論理が現代という現実の中で具現化されたものである。30年前ならワープロ、20年前ならパソコン入力、10年前ならスマホ、現在なら様々なSNS などがそれにあたるのだろうが、これらはすぐに古いメソッドになるのである。
事実、どうして大人たちは、最新技術に疎くなりがちなのだろうか。彼らにだって若いときがあった。その頃は最新技術を素早く身に付け、意気揚々としていたのである。しかしながらだんだん面倒に感じて若者に頼りたくなる。加齢によって習得機能が落ちたのだろうか。それも多少はあるかもしれない。しかし主因は違う。すぐに役に立つ情報は人間の脳の中ですぐに古くなり、無用なフラグメントとして堆積するからである。あなたは、昔覚えた数字現在有効活用しているだろうか。
たとえば日本のミカンの総収穫量は2013年には約90万トンだったが2022年には約68万トンである。現在もうすぐ30歳になろうとしている人たちにとってはでは90万トンで覚えたはずだ。ではその後毎年これらの数字を勉強し直し刷新し続けているだろうか?そんな人はごく少数である。一度蓄えた情報が毎年変化すれば、それは意味の薄いものとして脳内に沈殿し、言ってみれば「面倒くさいもの(フラグメント)」化するのである。一方、不要論が唱えられる古文漢文の知識はどうであろうか。これらは人一人の知識の中でいつも変わらず、思考単位の一部を構成する。
幼少期に必要なのは、湯川秀樹にとっての漢文の朗読のように、特定の時期に意味の問題を超越して暗記し、頭の中に堅固な思考単位を作ることである。それは二十代前半までは確実に優先事項である。人は幼いときほど意味を考えずに記憶できる。その頃に人として貴重な思考の単位を蓄えるのである。その貴重な時期に、現実と結び付きの強い、時代の変遷につれて可変度の高い知識を供給するなど、教育の方法として、愚の骨頂である。
【「清き一票」のための「役に立たない知識」】
私たちが役に立たない知識を学ぶのは、私たちに平等な選挙権を持っているからでもある。選挙権は、権力の打倒のためのものではない。権力打倒は真実を求めるための態度ではなく決着をつけるための最終手段である。選挙権は本来国のために戦った戦士にしか与えられなかった。自分の命をかけて国を守ろうとした人こそが真の愛国者だという考えは現代も間違いではあるまい。しかし私たちが一定の教育を受け、戦争が日常でなくなりつつある今、選挙権は、一人一人の総合的な判断の集積に基づくものになった。一人一人の立場は違う。たとえば医者と配管工では立場は違う。しかし、配管工が配管に都合の良いだけの政治を国家に求めてもらっては困る。総合的な教養があればそれは救われる。たとえば「医者は頭のいい人たちの集まりなのだから正しい総合的な判断ができるだろう」というのも間違いである。自分が知的に自信のない人または考えたくない人が、社会的知的に優位に立つ人に判断を委ねるととんでもないことになる。2023年時点での世界はたしかに、少なくともその5年前よりはずっと酷いことになっている。
私たちが「すぐに役に立たない学習」を学校でしなければいけないのは、この総合力を持つためである。すなわち、役に立たない学習を放棄することは、いずれ戦争への道となる。放棄するのは自然界の力関係に運命を委ねている野生動物たちだけである。
【役に立たない勉強と競争原理】
人は勉学においてジレンマに陥ると大抵「こんなものを勉強して何の役に立つんだ」と言う。かつて私も人一倍疑問を持ち、学校教育からドロップアウトしがちな自分を想像した。これは、「すぐに役立たない教育内容」への問題意識と「一律的な競争原理」への疑問が混同されている。あなたはどちらに疑問を持っているのだろうか?
ここまでお読みいただいたので、おそらくは「すぐに役立たない教育」についての誤解は解けたであろう。それは義務教育の本質である。では問題なのは「一律的な競争原理」の方であろうか。では偏差値をなくせばよいのだろうか。偏差値は、得点の不平等がないように是正するためのものであり、どう見ても学習者にとっては平等で情報量が多いものである。あなたが「自分だけラッキーな抜け駆けをすることができないじゃないか」という考えの持ち主ならまた違ってくるが。
日本は小さい時から一律的な過酷な受験競争がある数少ない国である。東アジアの国に多いにしても、日本と比較してあまり成功しているようには見えない。一方、受験競争のない国というのは、小学校から高校までのどこかで、知能や学力のテストを行い、その結果によって一方的に進路が決められてしまう。機会の平等はない。であるから、若者たちはのんびりと明るい。ただ、学力を伸ばす努力の方法すら知らされない場合も多い。緊張感の少ないのんびりとした青春を謳歌しているうちに気がつけば自分は成功コースからははずされている。アメリカの田舎のプア・ホワイトの人たちなどはこの境遇が多い。しかも無駄に厄介なことに、アメリカでは日本同様「努力」が尊ばれる。これはあまりよくないコンボである。その結果、アルコール⇒薬物中毒⇒ピストル自殺というコースにまっしぐら、という可能性もある。
マイケル・サンデルの『実力も運のうち~能力主義は正義か?』によれば、たとえばフランス人の75%が「人生の成功は運だ」と考え、アメリカ人や日本人は75%が「努力だ」と答えるそうである。社会で努力が見合うのは、機会が平等な場合に限る。そのため、「機会の平等」は大変な努力を個人に強いる。そしてそれは個人の心を暗くするのである。理想論としては、人の能力は様々なのだから、各個人が人生のどこかで見切りをつければよい。しかし、事実上のドロップアウトの意識はどうしても劣等感を生むし、先にのべたような、義務教育の構造を知らないと時間を無駄にしたような気分に陥りがちである。繰り返しになるが、理想としては自分で見切りがつけられるとよい。
現在日本の大学進学率は56%位である。低いと思われるかもしれないが、これは素晴らしい値である。つまり、高校までの学習が充実しているのであれば、大学進学率は低くてもよい。日本人の若者が「学業に見切りをつける」状況が用意されているということだからである。ちなみにアメリカは72%である。高校までにあまり勉強していないからというのもあるが、エリート主導の学歴的ヒエラルキーに取り込まれざるを得ないという側面がより強いのではないか。また、現在フランスでは中卒だとホームレス一択である。大卒でも一年以上ブランクがあるともう雇ってもらえない。日本人の中には一部の外国が自由に人生を選択できるパラダイスだと思っている人もいるが、はたして本当にそうなのであろうか。若者たちが「自由」を選択できるステージはどのくらい用意されているのであろうか。
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教育論4 /8 古文漢文不要論~ 2024年03月30日
【古文漢文歴史不要論について】
古文漢文不要論は巷でも多く語られているので、ここでは私たちにとっての結論的な部分に至るアウトラインを掬いたい。私の立場としてはあとで述べる「学校は役に立たないことを勉強するところだ」というものだ。
古文漢文は実社会における重要度が低いから時間数を減らすか無くした方が良いという主張について、一つには、役に立つかどうかは問題ではないということと、もう一つには、実際におおいに役に立つということ、この二つの視点がある。
前者についての比較的発達した論は、「役に立つかどうかは問題にならない」そして「役に立つことを主張すると、要不要論に巻き込まれるから話さない方が良い」というものである。そしてそれは「学習態度を作るから」という視点で、こうした学習を肯定している。
後者はさらにあと一歩踏み込み、「役に立たない勉強というものの本質は何か」ということがある。前者における「学問の内容よりも学習の態度を作るから」というのは、一つの堅実な答えではある。しかし一方で、「要不要論を相手にしない」態度というのは実は彼らをまだ間接的に相手にしていることになるのではないか。私たちは第三者にも誠実な答えを出さなければならない。なぜならば、もし本当にそれが「学習態度を作るから」というだけであれば、その内容は何でも構わないということになりかねないからである。しかし実際には学ばれる内容は、古文漢文、歴史、芸術、その他の「真実と思われるもの」でなくてはいけない。私はその点で「学習態度を作るから」というだけでは、あとの論が苦しくなり、「教育は集団としての国家のためのものでもある」といった論に逃げざるを得なくなると思う。このような論客の問題点は、人間にとっての誠実な論理展開はできて人間の「学ぶ態度」の重要性はわかっていても、「では、そもそも人間にとって真実とはなにか」という問題に向き合っていないことになることだ。
【古文漢文の必要性は「国作りのため」であるのか】
「古文漢文教育は、憲法に基づく、集団としての国家のためのものでもあり、国作りのためのものでもある」という意見への付加的批判をしておきたい。これについては、ネット上で主張されている若い方がいたので、それを全面的に批判するのではなくあくまで付け加えて言っておきたいという立場から、一応解説しておくだけで、自明の理だと思う方は読み飛ばしてほしい。
教育はたしかに国家主導で推進されるシステムだが、それを国家や憲法の示唆の結果、現在のように行われているとするのは、原因と理由、結果と意義の関係を正確にとらえていないと考えられる。抽象的な意味での「国家」という概念による主導なのだということは、たしかに「理由」にはなるが、現状に対する「原因」とは言いがたい。もし現状に対する原因であるなら、多くの国民が直感的に「古文漢文は必要なのでは?」と考えていることへの説明がつかない。その時に「国家と国民はそのような形で契約しているから」というのは、たしかに国民が許容しているからだと言いやすいが、これは「国民の教育の享受」という概念とは甚だ相性が悪い。この論は国家が主導しているのだから、日本人が従っているのだというイメージになりがちである。論者はそのような意味で言っているのでははない。が、実際には、私たち国民の側が「なぜ?」と問いかけるときには、良い答えではない。
実際には国家の思想とは関係ないところで私たち一人一人の多くが古文漢文を必要だと感じているから、現状多くの人々が学校で仮に嫌々ながらだったとしても学んでいるという事実がある。国家のもくろみがひとつの「理由」だとしても専制国家でないかぎり、私たち全員が意識して「理由」として納得できるものではない。その意味では結果に対する一種の「原因」にすぎなくなる。そして同時にこれは決定的「原因」にも「結果」にもなりえない。なぜなら私たちがここで問いかけている「なぜ古文漢文が必要なのか」という問いは、より明晰な、人間の本質に根差した「理由」を必要としているからだ。つまり私たちは今「古文漢文を勉強させられている」という結果を認識しているが、それを「意義」としてもう一度とらえ直そうとしているのだ。その意味で「国作りに役立つから」という意見は答えにならない。
民主主義国家であれば私たちには、国の教育方針に従う義務とそれに疑問を持つ権利がある。であるから、この元々の意見は、この二者の間の「不思議」に答えていない。すべての学習者はすでに古文漢文の学習のシステムには潜在的に納得し選択している。その上で問いかけているのだ。多くの古文漢文教育はに否定的な人々も「たぶん古文漢文はなくならないだろう」という推測ではほぼ一致している。「どうせ変わらないだろうな」という意見を持っている。その推測が当たるかどうかは別にして、私たちは自分たちが「頭のどこかで古文漢文が必要だと感じているから勉強を強いられている」という点では合意を得ているのだ。私たちはその上で、この「義務教育」というものの中に潜んでいる「不思議」を解読しようとしているだけである。だから、「古文漢文は必要だ」という意見を持っている人が「国策として国の歴史や文化への意識を持たせて国作りをするためだ」と回答することは、不十分すぎるのだ。
また、そうであれば、お隣の間違った歴史を教えている自称「民主主義国家」の人々が、論理的に自己矛盾を起こしていることに薄々気がついているという事実に、説明がつかない。自分達の種族に誇りをもつということは教養である前に本能である。それを刺激することが学問だとは言えない。彼らが純粋に国家に洗脳され、真実を見ないのなら、一部の苦しい宗教のように、自分達のドグマの中に閉じ籠り、安住できるはずではないか。それはたしかに「国作りのため」に行われたはずである。しかし、人間の知性はそこに疑問をもつ。それが日本人の古文漢文教育への「なぜ?」なのである。
【真実は勝つ】
また、私たちの知的常識の中ではまたは民主主義においては「真実は勝つ」でなければいけない。それは甘い理想論ではなく、人間が群れたときの社会学的真理である。たとえば隣国では政府による人民の統括のために、日本を仮想敵国として明らかに歴史と違った教育をしている。その国の学生たちは真面目に勉強しているのだろう。しかし、そのうちに必ずどこかおかしいところがあることに気がつき、自己矛盾に陥り、心理的にも崩壊に至る。これは単に「学ぶ態度」が形成されれば良いということではないことを如実に表している。いくら「これが真実だ」と押し付けても、人はその対象からだけ学ぶのではない。それを学び、学ぶ態度を自分なりに構成し、さらに外部の現実の「外気」と触れるうちに「気がつく」という現象が起きるからだ。そしてそれこそが人間の知性なのである。であるから、義務教育はその時代の最も確からしい「真実」に基づき学習態度を習得することで、できる限り高品質の総合基礎教育を提示しなければならない。義務教育は、学生たちが初めて社会という「外気」に触れるまでに、世界に対する最も真摯で真実を志向する知的態度を備えさせるためのものである。
【ウィキペディアの勝利】
インターネット上の百科事典「ウィキペディア」は成立当時、ほとんどの人が「数年のうちに無責任で私利私欲でコントロールされる落書きのようになるだろう」と考えていた。結果としては、現在までのところ、たしかに多くの瑕疵はあるが、それでも調べものの便利なツールとして生き残っている。
私はこれは人類の知の勝利だと思っている。世の中には善人から悪人まで、そして聖人から心卑しい人までいろいろ蠢いているが、それでも一人一人は大抵の場合自分を基準に生きている、すなわちどんな人も「自分は正義だ」と思って生きているのだ。であるから、内容が事実であるかどうかには個人の認識のレベルでは抗えない。それは人間が自分が見て感じたものを疑えないのと同じように、文字を通して、自分が事実だと思うことを見逃せない本能から来ている。それは実際には卑屈な批判の応戦だったりすることがほとんどかもしれないが、それでもなお、事実から目をそらしているばかりではないのだ。
現在のウィキペディアの姿を見れば良い。それは決して素晴らしいものではないかもしれない。一種の薄汚れた事実記録かもしれない。しかしそれでもなお、それは一定の事実と真実を表示し、現代人の知の姿を体現している。ある意味「ほら、人間の知性はこんなもんだよ」とも言わんばかりに。
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