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探究芸術と共感芸術への補足 
【探究芸術と共感芸術への補足】
 この二つの用語について、「それは作品の本質の問題ではなくて鑑賞者の精神的態度の問題だけなのではないか」と唱える人も出てくるかもしれない。しかしそれは、対象の本質を見誤り、なるべく卑俗な思考単位に振り分けることで、自ら思考停止に陥ろうとする軽率な判断である。今まで人々はそうやって自分がわかる範囲内の狭隘な判断によって、いつも通りの相対主義に逃げ込み、本質の探究を避けてきた。前の章で述べた「人それぞれ」論である。
 一つの作品は必ずしもこの二極化された分類のどちらか一方に属するわけではない。しかし、逆に「絶対に探究芸術ではない」と言いきれるもの、または「絶対に共感芸術ではない」と言いきれるものは存在する。この分類はたしかに具体的作品そのものではないかもしれない。しかし、作品がこのどちらにより属するのかということは、鑑賞者の精神的態度によって決まるのではない。それは芸術作品の完成度の固有性に対する冒涜である。この分類はたしかに芸術鑑賞者側ではなく、芸術作品側の本質の一端である。芸術鑑賞者の側だけで決まるのであれば、それは既に芸術作品ではない。自然でもスポーツでも良いということになる。(自然やスポーツが芸術であるかどうかはここでは論じ得ない。しかし、ここで言う「芸術作品」ではないことだけはたしかだ。)言い換えれば、人間がその作品を「芸術作品」だと認める限りは、その作品は「探究芸術」と「共感芸術」の間のどこかに位置しているのである。
 作品はその創作の段階で作者が共感芸術だという認識が強ければ強いほど、多くの人に受け入れられるいわゆるエンターテイメントとしての性質に傾倒する。それは表現者として自然なことである。その一方で、探究芸術として自分の作品を強く意識している創作者は、仮に今誰から理解されなくても己の信じる形に成立させたいと考えている。もちろんそのような創作者の方が人一倍鑑賞者からの評価を求めている場合も多い。そして創作者側の意識としては探究芸術のつもりでも結果として鑑賞者側には共感芸術になってしまう場合もあれば、その反対もある。
次の四種類に分類してみよう。

 創作者の意向 → 鑑賞者の意向  形容例a    形容例b 
A  探究   →  探究   ミケランジェロ      ランボー  
B  共感   →  共感   相田みつを、初期マンガ  演奏家が楽しむ音楽
C  探究   →  共感   職人気質、マンガ作画家  バレエ
D  共感   →  探究   戯作者精神、太宰治    イマジン、マネ  

 この四区分を実態としてさらにそれぞれ二例の行程と結果で説明する。
a は創作者がその構造を認識している例であり、 bは誤解または破滅的判断をしている例である。

A  探究 → 探究   
a  ミケランジェロは、その天才を早くから認められ、周囲と妥協せずに自分の芸術家としての人生を全うした。大衆を相手に媚びることもなかった。
  
b  詩人アルチュール・ランボーは二十歳までに人類史上最高の詩群を書き終え、しかし、そのすべてを焼き払おうとした。これは本人がその作品が人との共感を本質的に求めない質のものだという認識が先行しすぎて、自ら否定しようとした例である。(幸い、彼の借金のために出版社によって差し押さえられ、現代まで生き残った。ここの段でAaになった。)
 また、一般にはたしかに探究的な作品なのだが、全く売れることを前提としていないものもここに含まれる。売れなかったマンガや詩集の中にはそのようなものもあるかもしれない。
 さらに、歴史上書かれた文章などで今も研究の対象にはなっているが、文学的価値の無いもの(スカスカの古典)などはここに入る。

B  共感 → 共感   
 a  相田みつをの詩は本質的に一般鑑賞者との共感を前提としている。作者本人は匿名の鑑賞者たちと人間の感性として同じであることを前提としている。
 日本の最初期のマンガもここに属するかも知れないが、マンガ文化と技術は急速に発達した。現代ではほとんどのマンガが通常Cに属し、名作といわれるものはDに属することになる。もちろん、その精神において素朴なまま高い人気を維持している子供向きマンガ作品などにはそのままここに位置していると言える場合もあるだろう。
 スーパーマンなどのアメリカン・コミックは残念ながらその商業的性質もあって、構造的にはこの分野にとどまっている。
 お笑い文化もここに近いが、芸能は肉体と現実そして時代の補佐のウエイトが高すぎて、ここではあまり論じるべきではない。        

 b 「音楽は自分がまず楽しくやらなければいけない」というロック・ミュージシャンなどがこれに当たる。お金をとって聴きに来てもらっているコンサートで仮に本当に仲間内の意識だけでやっているのであれば、それは音楽演奏を完成させようという作品意識を有する態度とは言えない。それは宴会である。これはもちろん当人たちの才能または認識の度合いによって変わる。
 さらに「私は芸術家としてこれを再現したい」という情熱を観客にぶつけることで共感を生み、実際の探究芸術的価値とは関係なく、「自己の芸術性を表現した」と錯覚するアーティストは多い。ここには鑑賞者が「この人は高貴な芸術を再現しようとしているのだ」という信仰がある。これはたまたま創作者の別の人間的な魅力や流行によって達成されることが多い。そして面白いことにこれはほぼ日本特有の現象である。しかしながら、大きな目でみれば、学校の学芸会の延長に過ぎないかもしれない。そしてそれは外部の人間があれこれいうことでもない。

C  探究 → 共感  
a  漫画の作画家は、漫画原作者の意向を最大限に活かすことだけを目的としている職人でありプロフェッショナルである。作画家は売れなければ存在価値がないことを深く自認している。その点で常に最も誠実な創作者の一種類である。
    
b  近年バレエの練習に励む若者が「バレエは芸術です」と主張して話題になった。ダンサーの側の努力自体はたしかに芸術とするに値するほど精緻なものかもしれない。しかし、それがどのように精緻なものであっても、それは舞台上でそれは鑑賞者が認識して楽しむ部分ではない。それは共感を生むものでなければ成立し得ない。よって、この発言はバレエダンサーの無教養な傲りに過ぎない。一般鑑賞者がバレエ・パフォーマンスを探究芸術として捉えるのは、その筋の専門家以外ほぼ不可能であり、それこそが、バレエに限らず同様の構造を持っているパフォーマンスが周囲からの援助なしには継続できない理由でもある。これらは決してバレエ自体の尊厳を傷つけるものではないが、しかしそれでも「私はこんなにメイクを工夫したのだから美人なんだ!」と訴える人のように滑稽である。
 
D  共感 → 探究   
a 太宰治など、戯作者精神が昇華した場合などがこれに当たる。
 さらに一般的には古典落語などもこれに近いかもしれない。ポイントは、ほぼ日本特有の現象である。無限に反復して鑑賞が可能であるところだ。しかし、この分野も「笑い」という感情を前提とするので、ここに区分するのは誤解を招きやすいかもしれない。

b ジョン・レノンは、「ポールが書いた、人気のある「イエスタデイ」のような作品を自分も書きたい」と考えて「イマジン」を書いたが、これはむしろ精神性の強い探究芸術的に評価されている。才能が娯楽的要素を拒絶した。これは無意識型天才に多い例である。同様にエデュアール・マネがサロンで成功しようとしてうまく行かず「印象派の父」として評価されたことなどもある意味同様である。

総合すると、AとDが探究芸術である。つまり結果として、作品が自律的に鑑賞者に探究的態度を要求する場合に、探究芸術は成立する。すなわち、探究芸術か共感芸術かは、作品によって決まる。また、共感芸術と言えるのは、Ba 、Caということになる。Bb 、Cb は一種の勘違いの例である。

 これは区分上こうなったが、おそらくBとCの分量は現代社会において莫大である。人々は別に芸術として意識せずとも、さまざまな人間表現のあり方、芸能、エンターテイメントとして作品を楽しめるので、その意味で大きな力を持っている。しかも共感芸術の分野にとって幸運だったのは、国民や民族のマジョリティー(通常、中間層)の層が厚ければ厚いほど、この分野は豊かな力(説得力・伝播力)を持ち、その結果の一例がが現代のマンガ文化である。
 また、先の章で述べた通り、その活動においてベートーベンの第九交響曲は「A→C」へ移行した例であり、ビートルズの公演活動の中止とその後のスタジオミュージシャン化は「C→A」の例である。
 
 

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芸術哲学について4/4 
【数字や言葉で表されないものへの正しい感性】
 現在までに私たちは、人にとってのモノを分析する数字と科学、そして、外部的人間関係(人と人)を扱う言葉、社会科学的分野を元に、世界を把握し発展させようとしてきた。ごく大雑把にまとめると

   自然科学  ←→  社会科学  ←→  芸術
対象  モノ    個体としての人と人   個人の内面
単位  数字       言語        五感

 私たちは自然科学に対する信頼はほぼ確立している。社会科学に対しては、その有効性においては(法学など)、人間に莫大な貢献をしているが、それでもなお、人類の固体が個体を客観的に見極めるという行為において、いまだ不安定で、半信半疑の状態が続いている。これは、ひとつには、自然科学では既に前提となっているような「反証可能性」について、煮えきらない姿勢のままであるからでもある。

 仮に自然科学と社会科学を人類がものにしたとしてもその背後には広大な人間の美意識の世界が残っている。それを自然科学は「本能」「生理」と呼び、社会科学では、「欲求」「気質」と呼んだ。しかし、実のところ、それだけでは、人類が自分達や他の種、または自然環境により良く生存し続けるために十分ではない。
 現代人はよく「学校で教わったことだけでは世の中に出て解決しない」というが、素朴に考えれば、これは、「自然科学や芸術だけを知っても社会科学の分野を利用しないと成功し得ない」ということだろう。しかし、厳密には、「自然科学や社会科学の分野を極めてもそれ以外の芸術的分野を考慮しなければ何も成就に至らない」ということである。

【芸術哲学の必要性】
 モノの性質を究めた自然科学の分野、そして人間と人間の関係に注目している社会科学系の視点を経て、私たちが必要とするのは何だろう?それが芸術哲学であるという話をしたい。
 世の中には愛と友情の歌が多い。広義にとらえれば讃美歌などすべての宗教歌も愛の歌である。科学を信仰する若者は言うだろうか?「恋も友情も、人間の種族保存の本能に基づく生物学的構造に過ぎない」と。仮に、人類の個体を採集しようとしている宇宙人がいたとして彼らはこういうだろうか?「人間は本能に従う愚かな生き物だから採集は簡単だ。幼体(赤子)を捕らえておとりにすればいくらでも釣れる」と。赤子を奪われた母親は、危険を冒してでも我が子を救おうとするだろう。私たちはそれを科学的に見つめるのだろうか。
 人間の愛の中には、それが異性への恋愛だったにしても、それを「生殖本能に過ぎない」と斬って棄てることができない部分がある。私たちが愛する人を「美しい」と言った時に、それは「愛」である。では、この中から生物学的な物をとりのぞいて、「美」だけを抽出できないだろうか。その視点が芸術である。そしてそれは、その先には、私たちがたどり着き得ない「理想」「永遠」がある。それらは、「愛」同様、私たち人間の本質的指向性なので、その方向に進んで裏切られることはない。それは個人においてはもちろんのこと、社会全体においてもそうである。私達はそれを目指すことで、調和と平和に近づくことができるのだ。
 今世界では、言いがかりや論破によって、簡単に破壊的行為に屈する人が多い。各国の法制度は決して完璧ではないし、SDGsやLGBTQ といった人間の本来の生き方にむしろ反する規範ができつつある。私達は肉を食べないと生存できない肉体を持って生まれてきているし、地球にとって究極的に害なのは人類であるということは誰もがわかるところであろう。これらの判断は、みな自然科学を確信した一部の(おそらくあまり科学者的ではない)人間がその論理をそのまま自分と等身大の人間に当てはめてしまったことから起きている。これは主に教育の問題である。
 私達が学問を学び続けるのは、数字や言葉を通じて学ぶことで、数字や言葉で学べないこと習得するためだ。ここにおいて「数字的データを見ましょう」「客観的に俯瞰しましょう」ということの正しさと、「それってあなたの感想ですよね」「はい、論破」といった言い方とには、まったくの質の違いがあることに人は気がつかなければいけない。前者は、科学的態度であるばかりでなく、芸術哲学の立場でもある。後者は、数字と言語によって限定された理論と知識だけで、世界が成立しているかのような弁である。(つまり頭が固いのである。)社会的に成功するだけならこれで十分である。しかし、本当に世界を人間を良くしようと考えるとき、まったくの無力であり無責任である。幸か不幸か、人類はこうしたことを論じれられる段にまで至っている。私達はいつまで「それって人それぞれだよね」とか「人類みな同じ」といった台詞に幻惑され、思考停止状態に陥り続けるのか。これを越えてゆくのが芸術哲学である。

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芸術哲学について3/4 
【探求芸術と批評】
 「探求芸術が言語による平明な解説を許さないというなら、わからない人とっては、外部から物的手がかりが与えられにくく、芸術作品の解説が得られないのではないか」という意見も出そうだが、批評においては小林秀雄がこの分野の可能性に肉薄している。よって、当時海外の批評家の一部からは小林批評は「何の証明もされていず、文芸批評とは言えない」という意見もあった。しかし、先述の「なにかに気がつく」ということは何らかの発想の飛躍を取り込むことである。小林の批評はそうした飛躍を促す警句に満ちている。思えば、現代の私たちは常にこうして考える機会に恵まれているはずではないか。
 芸術批評はしかしながら、商業的パブリケーションと相性が悪い。批評家は本当によい作品ばかりを論じ続けることはできない。同じ作家の末端作品までくまなく愛さなければならない。こうして「世俗的解説者」が活躍することになる。彼らは教育現場の教師の方々同様、学ぼうとする人々に刺激を与える。彼らが必ずしも、芸術作品深い理解者とは限らない。
 私たちの中ですべての探究芸術にアクセスできる人間はわずかかもしれない。しかし、それらが自分達の認識の辺境にたしかに、価値ある形で存在していることを意識し続けることで、自分達が愚かな道に進むことを妨げることはできる。

【解説者の存在】
 一般には、事実関係だけを説明する「世俗的解説者」は決して害ではなく、有効な形で存在している。その人たちは、芸術作品の真価を説明することはない。仮に説明したくなるほど理解が深い人がいてもそのような人はまず、大衆から受け入れられることはない。芸術は大好きだが実は深く理解せずとにかく好きでその選択も玉石混淆という人の方が、一般の入門者との架け橋になるのである。したがって、一見難解と思われる作品は、解説者の知識自体によって理解するのではない。それはあくまでヒントにすぎない。あとえば、ピカソ作品をその当時創作事情を知ることは有効なヒントではあるが、もしそれだけで解ったと思う人がいれば、その人はその後ピカソ作品を愛することはないであろう。そしてまた、こうした人々に「わかった!」感を与える技能を持つ人は、あまりその芸術作品を理解していない場合が多いのである。この場合、むしろ「発想の飛躍」があるという点で鑑賞者の方が創作的で、芸術家に近い。

【アイコン芸術】
 この造語は先記2種類の分類とは違い、芸術作品のおかれた社会的状態である。たとえば、レオナルド・ダ・ビンチの『モナリザ』はその典型である。探究芸術が共感芸術の環境にさらされている場合が多いのではないか。つまり、「その作品に価値があるまたはあったことは認めるにしても、今一つ感興を催さない。ただ、社会的に広く「名作」とされているから評価している」という鑑賞者層が多い場合である。このような作品のほとんどが本来非常に高い価値を持っているが、一時的に時代の価値判断との調和的接点を失っている場合などが多い。すなわち、「古典」の意味合いに近い。もちろん芸術的価値の薄いもので注目され続けているものも含まれ、その意味で、筆者はここで早々に「古典」という用語と分離させ意識してもらう方が良いのではと考えている。
 さらに、どうしてこのような造語が必要なのかというと、たとえば、最近頻発している欧米での、美術館の名画にペンキをぶちまける行為におけるその行為者の意識を明確にする効用がある。現在「古典だね!」という言葉には「すぐには魅力を感じないけれどね」という否定的意味合いが含まれることがある。それは鑑賞者が対象を、一瞬「アイコン芸術」と認識してしまったことによる。または、その作品の過去からの形式感が強すぎて、その形式が現在までの他の芸術作品の源泉になっていることには気がつかずに、「おきまりのパターン」と認識してしまうことによる。(外野からは、オチがわかりきっている古典落語の価値がわからないことに似ている。)しかし、こうした完成した形式のもたらす芸術の表現効果は時代を越えて強力であり、鑑賞者が集中することで結果その感興を得られることが多い。
 アイコン芸術は、存在価値が高い。それを日々の生活に中ではす目に見ながら受け入れることが大切である。なぜなら永遠というものとの距離感を通して、今の自分を確認する作業に繋がるからだ。

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芸術哲学について2/4 
【なにかに気がつくということ】
 人間の頭の良さとは何であろう。私は「なにかに気がついている」ことだと考える。それ以外の、いわゆる知識に基づく思考はすべて、灰塵に帰する。たしかに、初歩的な思考の練習として「まず感情を排そう」というものがあり、次には「たしかな事実に基づこう」というものがある。では、その「たしかな事実」とはあなたにとって何であろうか。学校で無批判に教わった科学や言語ではないのか。それを疑う術を自分なりに学んだだろうか。恐らくはほとんどの人がそれを考えたことはないのではないか。ということは、つまり、その点において、本当に考えてはいないのである。その意味でも、探究芸術の姿勢は、あなたの認識の世界に一石を投じるだろう。
 カントは、最終的に「美」だけが無条件で求められるものとした。(「趣味とは、すべての関心なしでの満足ないしは不満足による対象ないしは表象様式の判定能力のことである。そのような満足の対象が美しいと呼ばれる」)しかしながら、カントの時代にはまだ、芸術文化は完全には開花していなかった。しかしその手がかりの数少ない状況であっても、カントの慧眼は美の本質を見抜いたのである。むしろ、証拠が揃わない時期に理論づくめで証明してくれて本当によかった。
 それからショーペンハウエルがその思想を深めた。しかし、その思想系列は、科学による次世代を予見したニーチェによってむしろ閉ざされることになり、その後芸術哲学、いや哲学全体の暗黒時代が始まった。

【主観は客観的である】
 また、その意味で、「主観」は客観的な場合もある。これは主観と客観が一般には対象概念でありながら、その概念の定義基準が異なることから来る。客観は、対象を数値と再現性(時間の無視)からとらえられることが多く、主観は個体としての人間が知覚したり感情として催したりしたもの全てが内包されるので、「客観的だが主観的な存在」という芸術作品のようなものが存在しうる。これは「普遍性」と呼ばれる。先のカントが「美」としたものと言ってもよい。
 客観=人間が物体を見極める際の視点
 主観=人間が人間を見極める際の視点
 この二つは、人間が芸術作品に接するとき、溶解する。この二つは芸術作品において同じものである。よってこの二つは、一見対称軸にあるようでいて実は対称的ではない。
つまり「客観←→主観」または「客観≠主観」ではない。「客観=主観」になりうるのである。

【感覚の構造】
「感動」を構成する「感情」と「感覚」は別のものである。
感情はあくまで、知覚認識(いわゆるカントがいうところの「悟性」)から、最終的に派生するものなので、作品の価値に関わらない。
 まだ科学と言葉による認識以外の分野があまり対象とされていなかったカントの時代において、人間の認識は以下のようにとらえられた(極めてドイツ的である)。
感性→悟性→理性
しかし、芸術の感動を加味すると
感性→悟性→理性
     →感興(感情と感覚)
 この広く「感性」と名付けられているものは、A芸術作品自体の持つ各要素が当たるが、これがA 単に鑑賞者の(興奮も含めた)感情の想起をもたらす、いわば「感情の器」になるか、B 鑑賞者に自己の感じ方を問い探究をもたらす「感覚」を導くかによって二分できる。
 Aは、本能を含む肉体の状態や時代、流行、力関係を含む環境によるところもある。一方Bは、人間が自己にとっての真実または永遠といえるものを求める態度による。長い目でみて人間を歴史の上で導くのはBの要素であり、A要素はむしろ人間が単なる動物として自然界に流される要素となる。

【判別条件】
 A とBの違いは、A は、作者が作者らしくあればあるほど普遍性が減る、または抽象性が増せば増すほど、情報量は減る。(感動のための補助的条件は、時代や肉体から与えられる)。一方、Bは、作者らしくあればあるほど普遍的になる。つまり個別性は普遍性につながる。そして抽象性が増すほど情報量が増える。すなわち単純さが象徴を生む。(補助条件は「形式(感)」である。)
 たとえば、なぜあれほど繊細で有機的だった、比較的若い頃のベートーヴェンやピカソが晩年極度の単純化へと向かったのか。なぜ、モーツァルトやジョン・レノンといった天才たちが終生単純な芸術作品のみを生産したのか。それは、芸術におけるこの原理が働いているからである。
 わかりやすくいえば、「単純さは情報を増加させる」ということである。

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第二章 芸術哲学について1/4 
第二章 芸術哲学について

【芸術における良い作品と良くない作品】
 「芸術」というと、現代の私たちはしばしば「主観なのだから芸術作品に良いとか悪いとかはない」という言い方をする。しかしそれは、芸術作品における「感動」を構成する「感情」と「感覚」を混同しているのではなかろうか。これらは別のものである。
 人は自分の好きな作品を批判されそうな兆しがあると、「主観なのだから芸術作品に良いとか悪いとかはない」と反論する。それは自分の感じたものに自信をもてない存在の劣等感である。私たちは自明のものにはそのようには反応しない。たとえば、とても美味しいお菓子を食べているときに「このお菓子は美味しくない」と言われても人は逆上しない。「・・・そうか?俺は好きだけど。」で済んでしまうはずだ。そして、「芸術は良いも悪いもない」と強硬に主張する人に限って普段はその芸術を愛してはいない。日頃はそれほど集中もせずに「娯楽・気晴らし」として見たり聴いたりしているだけである。しかし、それゆえに、即興の芸術論の場では声を大にして主張するのである。つまり、自分が確信が定かでない分野について、「人間平等」という別の価値観から、自分の劣等感を隠すために、自分の守備範囲外の「芸術」という分野を批判しようとしているだけである。(野球を好きでない人間は、野球の本質について語るべきではない。)
 芸術作品が人間のなんらかの精神活動の技術的具現化である以上、良いものと劣るものは存在する。

【「人はそれぞれ」と断じる愚かさについて】
 芸術において、「人それぞれ」という言葉を用いて、対象の価値を決めるやりとりそのものを否定する態度がある。しかし、人間は何が正しくて何が間違っているのかという真理を追求してゆく生き物である。それ自体が人間の定義であるといってもよい。それが芸術作品鑑賞にも適用されるということである。適用されるということは、大学に美学等の教科があるということであり、芸術家の立場が、かつてのような河原乞食的身分ではないことを意味する。
 「絶対的な真理などなく真理とは相対的である」という相対主義哲学に基づく芸術観は、現代人からは安易に共感されやすい。「これこそが絶対的真理だ!」と主張するよりも、「人それぞれだよね」と言う方が大人で、柔軟で視野の広い印象を与えるからだ。これは現代の高度に発達した社会の人間関係における処世術としても「賢い」印象を与える。現代の社会科学的原理に基づいた動きを考慮しているという点で「頭がいい」という印象を与えるのである。人とむやみな衝突をせずに事を有利に進めることは、考えることを拒絶している多くの人々に支持されやすい。また、芸術に関しては、わかりにくい作品に対してのむやみな劣等感を刺激しなくてすむ。人がこの問題に触れ、否定に走るのを日常的にみるとき、この現代でも感情抜きで語れる人は少ないものだなと実感させられるのだ。
 この相対主義は、現実の世の中ではなおさら「人それぞれで、絶対的な真理なんかないんだから、そんなもの目指さなくてもいい」「何事も絶対的に決められないんだから、適当でいいんじゃない?」と、いう思考停止に陥る。特に民主主義国家の場合には致命的である。考えない「多数決」は無責任な衆愚政治になるからだ。これは、人間一人一人が別個に意思を持つ存在である限り、避けることはできず、政治や社会だけではなく、美意識などの人間の(一見)内面の問題のように感じられるものにも適用する。というか、それが「探究芸術」である。
 紀元前400年ごろ、こうした相対主義の祖であるプロタゴラスの思想に対して、ソクラテスは「人間は絶対的な価値・真理を追究していく存在である」と主張した。そして、無知の自覚こそが真理への情熱を呼び起こすとした。これが「無知の知」である。
 芸術作品、特に探究芸術の立場では、人は常に「何も知らない」状態におかれる。それは芸術作品が言葉や数字による一切の理解を拒絶している現実から始まるからだ。私たちが言葉を失うのは、「愛」と「美」の前においてのみだ。私たちは芸術に感動する時、すべてを自分流に一から集中し考え直さなければならない。そこに人類に与えられた、最も高度な思考がある。人間が常に作り出してきた文化や芸術による「美」は、私たち人間一人一人の個体における「愛」から、本能と欲望を切り離す。
 この意味では、数字の計算が速いこと、人への心遣いにおいて器用であること、絵画作品の文化的時代考証をするだけで理解した気持ちになること等が、いかに人間の頭脳の利用において、お粗末なことかがわかる。

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