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教育論3/8 英語教育2 2024年03月27日
【英語は中学までの単語で話せるようになるのか】
英語は中学までの単語で話せるようになる。それは当然である。それでも日本人が話せないのは、日本語表現が他文化に対峙して自己を主張する形式をほとんど持たないからである。気を遣わずに、そして翻訳的な文章構造を考えずに話せば、中学の単語だけで基本の英会話はできる。
よく、「英語の難しい問題はいいんです。せめて英会話さえできれば」という人がいるが、それは、根本的に勘違いである。本当にそれだけを思うなら、英会話は中学までの英語の力で十分なのだからそれを駆使して、自分の意識を変えて体当たりすればよい。しかし、大人の日本人はそれができない。なにか一言通じなければそれを自分のせいにし、「もっと勉強しなくては」「聞き取れなかった」と自省する。つまり「自分は英会話ができない」認定を自分でするのである。しかし、通じなかったのは、あなたが勉強不足だったからではない。単に知っている単語で言い返さなかっただけである。「パッと言葉がでなかったんです」というならそれは慣れにすぎないから、日常生活で機会を増やすだけのことだ。(そのときに日本人としてのあなたの自己認識は捨てることだ。)日本人流にたくさん勉強して知識を蓄えれば会話ができるようになるという錯覚は、その人が「翻訳の壁」と格闘しているだけである。また、聞いた音がたとえば"water"なら「ウォーター」でなく「ワラー」だったというのも、日本人流の発音が書かれている通りに発音すれば通じるはずだとする、書き言語文化の民族の発想である。書いてある言葉をモジモジと下を向いて話しても通じると考えるからである。
一方、日本人は日本人同士でも「間違った日本語を使うと教養が疑われる」と考える人は多い。これは、日本文化の中の日本人の大変な美徳だが、そのあなたのアイデンティティーを変えたくないのなら、頑張って勉強して、あなたの日本語力相応の英語の知識を備えて、「翻訳の壁」をも乗り越える必要がある。
逆に考えれば、大学受験レベルの英語を経験した人はみな、英語の教養は十分にあるとも言えるのである。ただそれは、話し言葉文化の他国では大抵無意味に映るかもしれないし、こうした日本人の側でも、ばかに素直に自分は英語ができないと認めてしまうのである。
【受験英語ばかりやっているからいけないのか】
日本の高校の英語はたしかに競争のための記憶という側面はあるに違いない。それでも実際には、勉強したぶんだけ英語はできるようになっているのだが、実際に会話に使えないから「できない」と自省しているだけである。書き英語の場合はそのまま使えば難なく通じる。たとえば、理工系の学生の論文などはある意味英語の翻訳は難しくない。専門用語によって共有しやすい概念や言い方が多いからだ。相手に気を遣うこともない。単に率直にこちらの日本語の思考論理で話せば通じるのだ。また、しばしばみられる光景だが、英語は「ほとんどできない」と自称する人が自分の欲しい商品を海外のサイトから買うときなども同様に難なくこなしている。これらは受験英語だけで十分にできている。なぜなら、これらはこちらが相手に表現したり要求したりしているものが自分の頭の中で具体的に想像できているので、「翻訳の壁」にぶつかることなく、目的に達することができるからだ。
【日本の英語教育は良くできている】
「文法偏重教育がいけない」とも良く言われる。私がアメリカに初めて留学したときつくづく思ったのは「英文法の勉強をもっとしておけばよかった」ということだった。英会話などしばらく現地の空間にいればできるようになることなど、容易に想像できた。しかし、英語を構築する文法力だけは別だ。日本語では文法はあまり重んじられていない。単一文化的国家においては文法は先行せず、例外的な発音や言い回しは多い。それに対し、複数の民族が話す国際言語においては、文法こそが言語をささえる骨子である。英語は、英和辞典、和英辞典、総合文法書の三冊だけで全部が書いてある言語である。この三冊で、日本人の「たしかな学習」をしたいというニーズに応えられるのだ。また、日本の文法書、教科書は非常によくできている。教科書については突っ込みどころはないとは言わないが、英文法書の体系化された完成度は素晴らしい。疑うなら、英米の大学付属の出版社が出しているテキストをみてみるとよい。とても独学に耐えうるものではない。というか、日本の学生のように自分で勉強するという前提で作られていない。教師の指導とサポートによって、発音したり、問題の答えを求めたり、グループワークが前提となっている。または散漫で、一冊終えた時点で英語学習のどこまで進んだのか、とらえにくい。
「他国の英語教育は進んでいるのですぐに英語ができるようになっている。日本もそれを取り入れるべきだ」という意見もあるが、海外で英語ができる国というのは多数あるにしても、それらはみな、①母国語と英語が同じ構造や文字を持っている、または②母国語とそれに伴う文化が脆弱である場合に尽きる。常に他の国の教育制度に学ぼうとするのは良い態度だが、結果としてできあがった大人をみて、その教養水準で感心したことはどれ程あるだろうか。それよりもインターネットやテレビで流される「アメリカの◯◯大学教授が認めた画期的習得法」といった飾り文句が跋扈する。昔ならオーソン・ウェルズ氏の朗読によるイングリッシュ・アドベンチャー、最近ならスピード・ラーニングがその例だが、それで話せるようになった人はどれだけいるのか。いたのなら今も日本の英語産業に定着しているはずではないか。英語教育産業界はまさに玉石混淆である。
英会話ができない理由が日本人の内面に起因する以上、外からいかにいじっても、なかなか成果は出ないのである。しかし、日本人は真面目である。なんとか新しい方法にすがって英語をものにしようと頑張るのである。そして、メディアやファッションにまでそれは広がり、言ってみれば「楽しみながら」英語を学ぼうとしている。これは恐らく高校までの勉強文化の別の成果であろう。そしてそれを利用したさまざまな産業は百花繚乱である。
これらを総合すると、日本の学校英語教育、特にテキストやワークブック、視聴覚教材はかなり良くできていると考えられる。
【日本人は英語はできている】
この話に入る前に次のことを確認したい。立場を逆にして考えれば、海外からの観光客の中には、日本語会話だけなら非常に流暢な人は多い。日本語は会話については世界で最も易しい言語の一つである。私たち日本人は日本語の難しさをよく知っているから、「この外人さんは、日本語が話せるなんて頭が良いのね」などというが特にそんなことはない。日本語は世界で一番習得が難しい言語であり、その複雑さは文化のユニークさと歴史の長さとあい重なって、学習者の頭痛の種となっている。日本語は話すのに最も易しく、習得に最も難しい言語であるということをよくおさえておいていただきたいのである。
皆さんの中には外国に観光旅行に行って英語ができなくて困ったという体験をした人は多いであろう。しかし、その外国とはどこなのか。ほとんどが観光地ではないのか。であれば、お客さんを相手にするために多少の英語ができる人が多いのは当たり前である。では、一歩踏み込んで、南フランスの片田舎や、ノルウェーの村に行った経験があるだろうか。そこではまったく英語は通じない。それどころか、英語で話しかけられた現地の素朴な人々の、恐怖に満ちた当惑ぶりは、田舎の日本人以上のものである。あるユーチューバーの方がフランスの田舎で「ホワイト・ワイン」と言ったらまったく通じず恐れられたという体験を披露していた。日本で「ホワイト・ワイン」と言って通じない地域はあるだろうか。また、私は最初の留学から帰国した時に日本の若い女性があまりに多く「ピー(pee)」という言葉を知っていたので驚いた経験がある。(私はその頃初めて聞いた単語だった)。日本語の優れた造語能力、外国語取り込み能力のお陰でもあるが、日本人は決して英語に疎いわけではない。むしろ世界では逆である。
アメリカの高校のスペイン語の選択授業はだいたいヒスパニック系の学生が取る。親がスペイン語を話すので大抵成績が良い。一方、単位の都合上、スペイン語には縁もゆかりもないアメリカ人学生が取る場合もある。この場合はだいたいできるようにはならない。日本人とまったく同じである。
これらの意味で、日本人は取り立てて英語ができないわけではない。むしろできる方かもしれない。ただ、日本語の完成度ゆえに、英語を使う機会がないだけである。
【「わからない」自分を捨てる】
英語教育は専門でもあるのでつい長くなってしまったが、日本人が英語ができないと認識しているのは、高度に熟成された日本語と日本文化によって、日本語以外の単位で構成されたものを認められないからだ。それはちょうど、芸術鑑賞をすべて「共感芸術」のレベルで認識しようとする立場と似ている。芸術鑑賞の領域においては日本人の態度は決して批判されるべきものではない。というのも、それ以上に日本人は勤勉で向上心があり、何よりも他文化へのリスペクトがあるからだ。しかし、現地にいけば誰もが話している言語の場合はそれはうまく行かない。日常言語に対してはリスペクトよりも優先させなければいけないものがある。それは学習者側の生活文化の希釈である。二つの言語を話す人の中には「バイリンガル」になれずに「セミリンガル」状態に苦しむ人もいる。どちらの言語も自分の母国語にできないことによって自分のアイデンティティーが作り出せなくなるのだ。そのような人は自分の存在に確信が持てず、非常に不安な人生を送っている。バイリンガルと呼ばれる人たちは必ずどちらかの国に軸足を置いているか、または日本の場合は日本人の外国人に対する大変なホスピタビリティーに甘んじているだけである。後者はたとえばインターナショナルスクールに属する明るい学生たちなどがいるが、それでもなお、彼らの一部は十分な言語的教養を持っているようには思えない。
日本人が英会話をできるようになるためには、このアイデンティティーの構築が不可避である。大仰な言い方になってしまっているが、ただ英語が好きであるというだけで簡単にできてしまう人もいれば、ずっと苦しんでいる人もいる。このことは日本人である以上どこかで一度は通過しなければいけない問題であるのかもしれない。日本文化が仮に壊滅的に壊れてしまえばこの問題はなくなるかもしれないが。
「英語がわからない」というのは、ほとんどが「日本語の意識に則るとわからない」ということである。その証拠に海外に渡り現地に馴染んだ日本人はかなり早いうちに英語をものにしているではないか。
日本文化が他国にひけをとらない以上は、どうしても私たちはわずかでも別の自分を作る必要が出てくるのだ。
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教育論2/8 英語教育論1 2024年03月23日
【どうして日本人は英語が苦手か】
どうして日本人が英語がいつまでも苦手なのかという議論は尽きず、実際文科省は無策と言われそうな方策ばかりを行っている。
たとえば、実際にかなり前から、小学校へのネイティブ教師の派遣を文科省は行った。そのため、何も知らない小学生の英語への夢を絶ち、劣等感を植え付ける結果となった。40人のクラスに1人のネイティブが来たら、みんながその人に親しんで英語への抵抗が少なくなると考えたのだろうか。皆さんの幼少期を思い出していただきたい。小学校は、豊かな集いの場であると同時に、競争、劣等感、いじめの渦巻く場である。誰かたまたまうまくやる生徒に教師が集中すれば、他の子は劣等感と疎外感の底へと突き落とされる。小学校では必ず1人や2人はたまたま英語ができる子がいるものだ。その子達は得意気にクラスメートたちの中でリードをとる。本来そういう子達はすでにネイティブと触れ合わなくてもやっていけるだろう。それよりも劣等感疎外感を抱きがちな子供たちをサポートしなければいけないはずだ。ところがおずおずとした子達は人生の最初にこうして英語への疎外感を持たされるのである。私の家族は長く英語教室を開いていたが、この方策が施行され直後から「英語は嫌い!」という小学生が激増した。悩んで英語塾に駆け込んできてくれるような子はまだ良いのである。多くの小学生はそれすらせずに劣等感の中に埋没することになる。
英語という分野は日本人が今まで培ってきた思考論理のレトリックのほとんどがまったく使えない。
また次のようなケースも多い。特に親御さんたちがあまり勉強が好きでないが金銭的に豊かな場合に多いが、まだ小さな子供にネイティブ講師を家庭教師として雇う場合である。または企業などでネイティブだけによる授業を組む場合なども同じである。このような場合だいたい半年ぐらいのうちに「やっぱりネイティブ講師ではダメだから日本人講師にたのみたい」となり、私たちがお手伝いすることになる。今の大人の中でも「小さい時にうちにはアメリカ人のお姉さんが来ていた」と思い出す人は時たまいる。「どうでしたか?」と聞くと「言葉がわからなかったので何にも覚えていない。事実今聞かれるまで忘れていたし、学校で英語もできなかった」というのが一般的である。ネイティブの先生が無力なのではない。子供は親や家族の繋がりから情報を得る。ただ子供にネイティブ講師をあてがって、親が関わりもしないというのでは、ただ米と水を混ぜてシャカシャカ振れば、ふっくらご飯が出来上がると思っているのと同じである。
【日本人英語習得のメカニズム】
では、なぜこれほどまでに、一般に考えられている教育法が英語においてはうまく機能しないのであろうか。これは実は教育法以前の問題が大きい。まず、二つの独立した問題がある。
1. 日本人の言語学習法は、根本的に「翻訳的」であり、「通訳的」ではない。
2. そもそも英語で話すときのような態度自体が日本人はできていない(英語と英会話は別である)
【「翻訳の壁」について】
1. 日本人の言語学習法は根本的に「翻訳的」であり、「通訳的」ではない。
これは、単純に「では、教育法を変えてみよう」という問題ではなく、日本人が日本文化ゆえにたどり着いてしまったかたちである。
日本語はいまや世界の先進国では珍しい言語構造を持っている。言語の文字には、「表音文字」と「表意文字(表語文字)」とに分けられるが、その二つの間を激しく行き来するのが日本語である。それに比べ世界のほとんどの言葉は「表音文字」によっている。英語のアルファベットもその他の言語もみなそうである。
表音文字ーーーひらがな、カタカナ、アルファベット
↑
↓
表語文字ーーー漢字
このような構造を持つため、日本人は幼少期におそらく他の民族よりずっと努力して日本語を習得している。一つの言葉を音で覚えたときにすぐにその漢字を想像して話している。たとえば、「はし」という音を喋る時、それが「橋」なのか「箸」なのかなどを素早く想定しながら話しているのだ。こんな言語は他に滅多にない。したがって、英語でたとえば"end "という単語(「端」と「目的」という意味がある)を聞いたときにも、表音文字文化の人々は「翻訳の壁」に当たらずに習得できる。しかし日本人は言語は一度翻訳して「書かれた言語」として記憶しないと再生産できない。ここで問題なのは"end"という言葉に二つの意味があるからということではない。日本人が、言語が音声だけで存在しうるということを前提にしていないということである。
他のほとんどの言語が「話し言葉(音声)」だけで成立しているのに対し、日本語は「書き言葉(文字)」で成立している。この日本人の既に脳内に成立してしまった高度な言語プロセスシステムにとって、表音文字だけの言語というのはあまりに情報量が少ないのである。日本人講師にには他の言語が日本語より単純な構造で成立しているということがわからない。
表 英 l翻l 表
音 他国の 語 l訳l ←日本人 意
文 学習者→ の lのl 学習者 文
字 世 l壁l 字
界
この「翻訳の壁」をスルーできるのはわずかに外来語でそれが二言語間で同じ意味を表す場合だけである。「アイディア=idea」や「ギター=guitar」や「ラブレター=love letter」などである。
これはあなたの素の感覚で考えていただきたい。仮にあなたが英語があまり得意でない日本人だとして、あなたはあのアルファベットの羅列である英語を今話している日本語とまったく同じ感覚で親和感をもって話せると想像できるだろうかーーおそらく否であろう。(それは実際には簡単にできる。)それは高度に複雑した(文字表記、文化日本、歴史と密接に結び付いた)日本語システムの側からすると、こんな英語のような音声言語だけで、自分の認識を納得させることなどできっこないと思わせるからである。
毎年、受験の直前になると講師室には必ず駆け込んでくる生徒がいる。よく勉強し合格にリーチがかかっている生徒である。彼らは必ず「先生、大変です。英語がまったくわからなくなりました。頭が真っ白です!」と。これは英語学習の完成の一歩手前の状態である。彼らの頭の中で、あまりに熱心に英語を勉強したせいで、音声言語としての英語情報が、自律的に日本語抜きで英語を認識し操れるシステムを作ってしまい、それを客観視した瞬間、あたかも自分の頭の中に無意味な英語の語群が存在し、勝手にうごめいているような錯覚に陥っているということである。これは通常は一瞬の印象の問題であり、すぐにもとに戻る。
私たちは、英語が英語だけで存在しているという感触がつかみにくい。これをいとも簡単に解決してくれるのが高校までの交換留学である。英語を話している空間に行くことが大事なのではない。日本語がまったく存在していない環境を体験することが大切なのである。そのため、大人になってから仕事の合間に観光で海外に何度も行き英語で買い物もできるという人よりも、小学校の時に親の都合で海外に一年以上行き、まだ小さかったのでほとんど英語を習得せずに帰ってきた人の方が、英語の最終的な習得率はずっと高いという実態になっている。たったこれだけのことで英語は話せるようになるのである。
【英会話のためには日本人を捨てる必要がある】
2. そもそも英語で話す時のような態度・姿勢自体が、日本人ができていない(英語と英会話は別である)
つまり、日本人の相手と共感し相手の心を読む会話態度自体が、他の言語にはほぼない。これは他の民族が人の心を読めないとかという話ではない。言葉の一つ一つを使うときに別の人格にならなければならないほどに日本と他の文化では違うということである。
現在の日本人の英語学習は英語をできるようになろうとしているのではない。アメリカ人になろうとしているのである。それがネイティブ全般からは奇異にみえる。「カッコつけてないで中国の人のように彼ら一流のベタな自国語訛りの英語を話せば良いじゃないか」というのも一つの考えである。しかし、ことはそんなに簡単ではない。日本人が日本語を話すということ自体の中に、謙譲語など、相手との関係性を意識しながら話す態度が組み込まれている。つまり、日本語を話すということは、ただ音声を発しさえすれば良いという問題ではなく、自分の感情やアイデンティティーまで関わって、表現しなければいけないということである。そして、日本人にとって英語を話すということは、こうした会話の態度に関わる様々なしがらみをすべて作り直すことでもある。
私も、英語を話すときにふと気がつくことがある。高校生の時の自分に意識が戻っているのだ。英語を話すときにどこか高校留学時代に心が里帰りしていてそこから時を経たもう一人の自分が英語を話しているという意識である。その意味では、英語を話すということはもう一人の人格を想定することである。であるから、一般に日本人は英語を話すときに本能的にアメリカ人になってみようとするのであって、カッコつけているとは限らない。むしろそのような学習態度は言語学習の初歩において大変有効である。
【国際人】
一方、アメリカ人になろうとしない英語学習態度というのはどういうものであろうか?これはアメリカであれ他の国であれ、他国に留学すれば自動的にできる。アメリカ人のようになりたいという幻想はアメリカに住み現実を知れば自動的に霧散する。しかしながら、文化へのリスペクトという意味では、他国の人間のことを何でも真似してみたいという時期は大切かもしれない。かつて日本人が唐の都に憧れ平安京を作ったようなものである。リスペクトは真の学習態度を生むのである。どの国にも文化として憧れられるものは多くある。これらに集中するのは、先の「翻訳的」態度かもしれないが、それは日本人の意識の中で豊かな精神態度を育てる。一方で、英語習得が仕事において重要な場合はそんな悠長なことは言ってられない。
日本人としての英会話者はつまり、真の国際人になるということでもある。私は留学から帰ってきた学生を扱う立場にあるが、どんなに流暢に英語が話せても彼らはその時点では「帰国生」にすぎない。留学生は海外であくまで保護される存在であり子供であり、親善大使であり、お客さんである。一対一の大人として他国の人と渡り合う存在ではない。彼らの体験はあくまで「アメリカではこうだったよ」という伝達者の域を出ず、国際社会での責任を持ち得ない。それどころか利用される可能性の方が高い。
この意味で、海外を個人的に行ったり来たりしている無名ミュージシャンや海外進出を目論んでいるお笑い芸人らは外国語学習において非常に不遇な立ち位置にある。彼らはある意味では個性的な特権的な立場に立っているようでいて、実は一個の国際人としては、相手にされていないかもしれない。同じ経済体系を持っていないし、交渉や取引の関係性もない。すなわちずっと留学生の立場にいることになる。世界を放浪するアーティストの多くは(決して全部ではない)は、すぐに現地の人間と仲良くなり「世界は一つだ」と主張する。それが言えるのは彼らが相手にされていないからだ。そのことに大抵気がついていない。以前日本のお笑い芸人の中には(これも決して全員ではない)、ヨーロッパで日本人と他国人の違いを笑われるように演じ、自分が成功したと錯覚した人もいた。彼が言うには彼の国では「欧州では芸人は芸人としてリスペクトされている」ということだった。しかし、差別意識を利用した笑いなど、一種の猿回しにすぎない。動画で観客の反応を見るとわかるが、現地の有色人種の人々がいかに迷惑しているかが伝わってくる。差別の構造も知らずに、言語も十分には習得せず、きちんと相手と対峙していなければ、国際人になることはできない。
こうして、1. は主に「英語」の問題、 2.は主に「英会話」の問題で、これは明確に別分野であるが、苦戦中の日本人の意識の中ではどろどろに溶け合っている。
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第三章 教育論 1/8 2024年03月20日
第三章 教育論
【日本人の90%は英語が話せなくて良い】
私は英語講師をしていて、英語を教え、英会話の指導もするが、日本人の90%は英語が話せるようにならなくて良いと思っている。「では、なぜおまえは英語を教えているのか」ときかれそうだが、私は私たちがどんなに頑張って教えても、日本人の80%以上は英語が話せるようにならないと、当座のところ、考えている。それは諦めでもなければ、したたかな商業主義でもない。英語が話せるようにならないことが日本の文化の長所であり、日本人の卓越した能力でもあるからだ。その一方で、私が教えている生徒たちは英語が話せるようになるという絶対的自信もある。
あるフィリピン人留学生が私に訊いた。
「先生、日本人が英語が話せるようにならないのは、国策ですよね」
彼は純粋に日本の文化と教育環境に憧れ、マンガの大好きな若者だ。この発言は、私たち日本人にとっては「何をおっしゃる!」という気持ちである。
「どうして、そう思うの?日本人学生が英語習得に苦しんでいるのはよく知っているよね?」
「いえ、日本人は頭が良いから。」
「いや、本当に英語はできないんだよ」
「でも、おかしいですね。たとえば、僕の姉は英語がペラペラだけれど、結果、低賃金のアメリカの大企業のテレアポの仕事をやってます。日本人はこの状況を回避してるんですよね」
フィリピンはタガログ語だけでは高校の数学も学ぶことができないという。英語だけできても、他の国に利用されるだけだという。
現在、日本人のほとんどが外国人を前に何らかの外国語で意志疎通をすることができず、そのことに劣等感すら抱いている。そして、「外人さんがきたのだから何かもてなしてあげなくては」と、懸命にジェスチャーでフォローしようとする。
私はそれは素晴らしい文化の状態だと考えている。
日本における最大のバリアともいえるものは、おそらく四方が海に囲まれていることだが、そして第二にそれは言語が独自的であることだ。日本語は非常に難しい言語であるため、そのために逆にずっと習得がやさしいはずの、たとえば英語のような他言語が習得できないというパラドックスが生じる。(これについては次章以降に詳しくのべる。)すると他の国の文化は容易に国内に入ってこられなくなる。これは文化を守るという点では、軍事力や経済力より強力な防衛力である。
昔こんなコマーシャルがあった。たしか英語の学校か教材の宣伝だったと思う。ーーある若者が海外で恋人へ花束を買おうとする。しかし彼は英語ができないので買うことができない。しかし、その学校に通って英語を習得したパラレルワールドのもう一人の彼は、難なく買い物を済ませ、恋人にプロポーズをするーー、という話である。皆さんはこれを見てどう思うだろうか?「そうか、英語は大切なんだ」などと思う必要はない。これは英語圏の人間が自分達のモノやサービスを純朴な日本人に効率良く売るためのワナのようなものである。どうしてこちらが製品を買ってやるのにこちらが努力をしなければいけないのだろうか。
それでは、二つの言語が同等にできればそれで良いのではないかと考える向きもあるかもしれないが、それも難しい。通常一つの閉じた文化や先進国家の中で二つ以上の別系列の言語が自発的に栄えることはない。ーー片方の言語が栄えればもう一方が衰退する。
一つの言語においてだけでも、徐々に「言葉が衰退する」という例は当たり前に多発する。それを私たちは「ああ、日本語の廃退!」と嘆きたくなる。しかしそれは、何はともあれ効率化をともなっている。たとえば、若者言葉で「ヤバい」という表現が増えて久しいが、しかしこれは言語の一部を淘汰したのではなく、時流にあわせて合理化がされた可能性が高い。
しかし、別言語がそこに存在する場合は別だ。より短絡的な、そしてより外圧に由来する言語にとって替わる可能性が高い。日本に日本語と英語が並立する可能性は低いのである。ということは、未来の日本社会は、英語に乗っ取られるか、今まで通り日本語で行くか、それとも、日本語スピーカーと英語スピーカーとで国が分断されるかしかないのである。仮に日本の文化と歴史が極度に浅く、他国に占領されている時代が長いと言った場合であればまた話は難しくなってくるかもしれない。しかし、日本は世界で最も古い王国であり、国際的な基準でも数々の成果をあげてきた。わざわざ「改悪」をする必要はないのである。
その意味で、私は、日本人の90%は英語が話せなくても良いと考えている。90%の日本人は日本語文化の中ですべてを考え行動していただきたい。そして海外から人が来る度に「外人さんをもてなさなくては」と慌て、職場では「これからは英語ができなければダメだと痛感した」と感じ入っていただきたい。それはなるべく長い期間の方が良い。日本文化が徐々に英語を取り入れて行くその時間を稼ぎたいのだ。日本が表記言語として中国から漢字を吸収し自分達のものとするまでに200年ほどはかかっただろうか。その後かな文字ができて、日本の言語形態の基礎がおそらくは平安時代に確立した。英語については私たちはその過程の真っ只中にいる。時間がかかって当然だし、かかればかかるほど良いのだ。一方、残りのわずか10%ほどの人々が外国語に熟達し、この日本の貴重で純粋な文化と、時には雑多な他の国の文化とを、合理的に繋ぐ橋渡しをしてほしい。それは人が想像しているほど気持ちの良いことではないかもしれない。気持ちが良いと感じるのは学生レベルであり、国際人として海外に立てばその苦さは自ずとわかるであろう。
「日本人の90%は英語が話せなくて良い」というのはすなわち、文化的バリアとして日本の文化や経済や政治を守るために必須であるということである。海外言語と文化を取り入れるということは、私たちが一般に妄想しているように都合よく良いとこどりをできるものではない。近年の移民・難民問題でもわかる通り、世界は、とりわけ日本はこうしたグローバリズムとは相性が悪いのである。
【仮想リスペクト対象の重要性】
私たち日本人は、外国文化に対する高いリスペクトを持ち、それゆえに勤勉にここまでの発展を遂げてきた。そのリスペクトとは、より高い次元の文化や知識の源を仮想的に設定しそれに挑むという勉学の態度である。実のところ、現実にはその先の文化や国家は廃退しているかもしれない。たとえば、漢字を取り入れ、唐の都にならって平安京を作ったときには、既に唐自体は荒廃し遣唐使も廃止になっていた。リスペクトの先にあるのは必ずしも現実のその対象とはかぎらない。それより何よりも大切なのは、学んでいる自分が目指すもう一つの自分の姿なのである。
その意味で、私は日本語の「先生」という言葉は素晴らしい日本語の財産だと思っている。その先生が立派な人かどうかに関係なく、教わっている相手を「先生」という立場でとらえることによって、勉学の態度が定まるからである。その意味で、現実に教師を「先生」としてリスペクトできない生徒は勉学に対する態度ができていない、または非常に独自的な習得姿勢をとっているということになる。
アメリカでは高校教師は「ミスター」「ミズ」で呼ばれる。先生という言葉はない。大学であれば「プロフェッサー」と呼ばれたりするが、これは社会的地位への呼称であり、「先生」のような、学生から見た教員との立ち位置を表す呼称ではない。アメリカの場合は、かつてモンスター・ペアレント(あちらでは『ヘリコプター・ペアレント』と言われる)が、最初に大量発生したときに、そのクレームに学校側は簡単に屈し、保護者たちのクレームのままに教員の言い分満足にきかずに首を切った。こうして学校教員はいつでも解雇されうる状況に追い込まれ、それは現在まで続いている。教員は反抗期の子供たちの顔色を伺わなくてはならず、結果、教師の地位は下がり、現在でもアメリカで高校教師と言ったらブルーカラーの労働者階級的扱いであるし、大学教授ですらも必ずしも名誉というばかりではなく「変わり者」というイメージがある。アメリカ留学時代、私の尊敬する先生は金銭的に貧しくトレーラーハウスに住んでいたのを思い出す。一人一人の教師の尊厳の問題はさておいても、仮想リスペクトの対象がいない学習というものは、大変効率が悪いと感じさせる。
かつてテレビで「金八先生」といった学園ドラマが流行したが、これらも日本の仮想リスペクト文化の表れである。「そんな先生はいない」「私の先生は人間として酷い人だった」と言った意見が出るが、それも「そんな先生がいたら良いのになぁ」という願望の裏返しであり、このようなドラマが人気を博すということは日本の教育文化が成熟しているということである。もちろんこれは、日本の教師の実態に問題がないかどうかという問題とは別次元の話である。
視線を転ずると、たとえば、JAXA が小惑星イトカワに探査機HAYABUSA がすべての科学者が諦めてしまうような絶望的な状況から奇跡の成功を収めたことは今も語られているが、このような偉業も、決して高度な技術のみで達成されたものではない。真実に対する高いリスペクトの姿勢こそが達成させたのである。
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探究芸術と共感芸術への補足 2024年03月16日
【探究芸術と共感芸術への補足】
この二つの用語について、「それは作品の本質の問題ではなくて鑑賞者の精神的態度の問題だけなのではないか」と唱える人も出てくるかもしれない。しかしそれは、対象の本質を見誤り、なるべく卑俗な思考単位に振り分けることで、自ら思考停止に陥ろうとする軽率な判断である。今まで人々はそうやって自分がわかる範囲内の狭隘な判断によって、いつも通りの相対主義に逃げ込み、本質の探究を避けてきた。前の章で述べた「人それぞれ」論である。
一つの作品は必ずしもこの二極化された分類のどちらか一方に属するわけではない。しかし、逆に「絶対に探究芸術ではない」と言いきれるもの、または「絶対に共感芸術ではない」と言いきれるものは存在する。この分類はたしかに具体的作品そのものではないかもしれない。しかし、作品がこのどちらにより属するのかということは、鑑賞者の精神的態度によって決まるのではない。それは芸術作品の完成度の固有性に対する冒涜である。この分類はたしかに芸術鑑賞者側ではなく、芸術作品側の本質の一端である。芸術鑑賞者の側だけで決まるのであれば、それは既に芸術作品ではない。自然でもスポーツでも良いということになる。(自然やスポーツが芸術であるかどうかはここでは論じ得ない。しかし、ここで言う「芸術作品」ではないことだけはたしかだ。)言い換えれば、人間がその作品を「芸術作品」だと認める限りは、その作品は「探究芸術」と「共感芸術」の間のどこかに位置しているのである。
作品はその創作の段階で作者が共感芸術だという認識が強ければ強いほど、多くの人に受け入れられるいわゆるエンターテイメントとしての性質に傾倒する。それは表現者として自然なことである。その一方で、探究芸術として自分の作品を強く意識している創作者は、仮に今誰から理解されなくても己の信じる形に成立させたいと考えている。もちろんそのような創作者の方が人一倍鑑賞者からの評価を求めている場合も多い。そして創作者側の意識としては探究芸術のつもりでも結果として鑑賞者側には共感芸術になってしまう場合もあれば、その反対もある。
次の四種類に分類してみよう。
創作者の意向 → 鑑賞者の意向 形容例a 形容例b
A 探究 → 探究 ミケランジェロ ランボー
B 共感 → 共感 相田みつを、初期マンガ 演奏家が楽しむ音楽
C 探究 → 共感 職人気質、マンガ作画家 バレエ
D 共感 → 探究 戯作者精神、太宰治 イマジン、マネ
この四区分を実態としてさらにそれぞれ二例の行程と結果で説明する。
a は創作者がその構造を認識している例であり、 bは誤解または破滅的判断をしている例である。
A 探究 → 探究
a ミケランジェロは、その天才を早くから認められ、周囲と妥協せずに自分の芸術家としての人生を全うした。大衆を相手に媚びることもなかった。
b 詩人アルチュール・ランボーは二十歳までに人類史上最高の詩群を書き終え、しかし、そのすべてを焼き払おうとした。これは本人がその作品が人との共感を本質的に求めない質のものだという認識が先行しすぎて、自ら否定しようとした例である。(幸い、彼の借金のために出版社によって差し押さえられ、現代まで生き残った。ここの段でAaになった。)
また、一般にはたしかに探究的な作品なのだが、全く売れることを前提としていないものもここに含まれる。売れなかったマンガや詩集の中にはそのようなものもあるかもしれない。
さらに、歴史上書かれた文章などで今も研究の対象にはなっているが、文学的価値の無いもの(スカスカの古典)などはここに入る。
B 共感 → 共感
a 相田みつをの詩は本質的に一般鑑賞者との共感を前提としている。作者本人は匿名の鑑賞者たちと人間の感性として同じであることを前提としている。
日本の最初期のマンガもここに属するかも知れないが、マンガ文化と技術は急速に発達した。現代ではほとんどのマンガが通常Cに属し、名作といわれるものはDに属することになる。もちろん、その精神において素朴なまま高い人気を維持している子供向きマンガ作品などにはそのままここに位置していると言える場合もあるだろう。
スーパーマンなどのアメリカン・コミックは残念ながらその商業的性質もあって、構造的にはこの分野にとどまっている。
お笑い文化もここに近いが、芸能は肉体と現実そして時代の補佐のウエイトが高すぎて、ここではあまり論じるべきではない。
b 「音楽は自分がまず楽しくやらなければいけない」というロック・ミュージシャンなどがこれに当たる。お金をとって聴きに来てもらっているコンサートで仮に本当に仲間内の意識だけでやっているのであれば、それは音楽演奏を完成させようという作品意識を有する態度とは言えない。それは宴会である。これはもちろん当人たちの才能または認識の度合いによって変わる。
さらに「私は芸術家としてこれを再現したい」という情熱を観客にぶつけることで共感を生み、実際の探究芸術的価値とは関係なく、「自己の芸術性を表現した」と錯覚するアーティストは多い。ここには鑑賞者が「この人は高貴な芸術を再現しようとしているのだ」という信仰がある。これはたまたま創作者の別の人間的な魅力や流行によって達成されることが多い。そして面白いことにこれはほぼ日本特有の現象である。しかしながら、大きな目でみれば、学校の学芸会の延長に過ぎないかもしれない。そしてそれは外部の人間があれこれいうことでもない。
C 探究 → 共感
a 漫画の作画家は、漫画原作者の意向を最大限に活かすことだけを目的としている職人でありプロフェッショナルである。作画家は売れなければ存在価値がないことを深く自認している。その点で常に最も誠実な創作者の一種類である。
b 近年バレエの練習に励む若者が「バレエは芸術です」と主張して話題になった。ダンサーの側の努力自体はたしかに芸術とするに値するほど精緻なものかもしれない。しかし、それがどのように精緻なものであっても、それは舞台上でそれは鑑賞者が認識して楽しむ部分ではない。それは共感を生むものでなければ成立し得ない。よって、この発言はバレエダンサーの無教養な傲りに過ぎない。一般鑑賞者がバレエ・パフォーマンスを探究芸術として捉えるのは、その筋の専門家以外ほぼ不可能であり、それこそが、バレエに限らず同様の構造を持っているパフォーマンスが周囲からの援助なしには継続できない理由でもある。これらは決してバレエ自体の尊厳を傷つけるものではないが、しかしそれでも「私はこんなにメイクを工夫したのだから美人なんだ!」と訴える人のように滑稽である。
D 共感 → 探究
a 太宰治など、戯作者精神が昇華した場合などがこれに当たる。
さらに一般的には古典落語などもこれに近いかもしれない。ポイントは、ほぼ日本特有の現象である。無限に反復して鑑賞が可能であるところだ。しかし、この分野も「笑い」という感情を前提とするので、ここに区分するのは誤解を招きやすいかもしれない。
b ジョン・レノンは、「ポールが書いた、人気のある「イエスタデイ」のような作品を自分も書きたい」と考えて「イマジン」を書いたが、これはむしろ精神性の強い探究芸術的に評価されている。才能が娯楽的要素を拒絶した。これは無意識型天才に多い例である。同様にエデュアール・マネがサロンで成功しようとしてうまく行かず「印象派の父」として評価されたことなどもある意味同様である。
総合すると、AとDが探究芸術である。つまり結果として、作品が自律的に鑑賞者に探究的態度を要求する場合に、探究芸術は成立する。すなわち、探究芸術か共感芸術かは、作品によって決まる。また、共感芸術と言えるのは、Ba 、Caということになる。Bb 、Cb は一種の勘違いの例である。
これは区分上こうなったが、おそらくBとCの分量は現代社会において莫大である。人々は別に芸術として意識せずとも、さまざまな人間表現のあり方、芸能、エンターテイメントとして作品を楽しめるので、その意味で大きな力を持っている。しかも共感芸術の分野にとって幸運だったのは、国民や民族のマジョリティー(通常、中間層)の層が厚ければ厚いほど、この分野は豊かな力(説得力・伝播力)を持ち、その結果の一例がが現代のマンガ文化である。
また、先の章で述べた通り、その活動においてベートーベンの第九交響曲は「A→C」へ移行した例であり、ビートルズの公演活動の中止とその後のスタジオミュージシャン化は「C→A」の例である。
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芸術哲学について4/4 2024年03月13日
【数字や言葉で表されないものへの正しい感性】
現在までに私たちは、人にとってのモノを分析する数字と科学、そして、外部的人間関係(人と人)を扱う言葉、社会科学的分野を元に、世界を把握し発展させようとしてきた。ごく大雑把にまとめると
自然科学 ←→ 社会科学 ←→ 芸術
対象 モノ 個体としての人と人 個人の内面
単位 数字 言語 五感
私たちは自然科学に対する信頼はほぼ確立している。社会科学に対しては、その有効性においては(法学など)、人間に莫大な貢献をしているが、それでもなお、人類の固体が個体を客観的に見極めるという行為において、いまだ不安定で、半信半疑の状態が続いている。これは、ひとつには、自然科学では既に前提となっているような「反証可能性」について、煮えきらない姿勢のままであるからでもある。
仮に自然科学と社会科学を人類がものにしたとしてもその背後には広大な人間の美意識の世界が残っている。それを自然科学は「本能」「生理」と呼び、社会科学では、「欲求」「気質」と呼んだ。しかし、実のところ、それだけでは、人類が自分達や他の種、または自然環境により良く生存し続けるために十分ではない。
現代人はよく「学校で教わったことだけでは世の中に出て解決しない」というが、素朴に考えれば、これは、「自然科学や芸術だけを知っても社会科学の分野を利用しないと成功し得ない」ということだろう。しかし、厳密には、「自然科学や社会科学の分野を極めてもそれ以外の芸術的分野を考慮しなければ何も成就に至らない」ということである。
【芸術哲学の必要性】
モノの性質を究めた自然科学の分野、そして人間と人間の関係に注目している社会科学系の視点を経て、私たちが必要とするのは何だろう?それが芸術哲学であるという話をしたい。
世の中には愛と友情の歌が多い。広義にとらえれば讃美歌などすべての宗教歌も愛の歌である。科学を信仰する若者は言うだろうか?「恋も友情も、人間の種族保存の本能に基づく生物学的構造に過ぎない」と。仮に、人類の個体を採集しようとしている宇宙人がいたとして彼らはこういうだろうか?「人間は本能に従う愚かな生き物だから採集は簡単だ。幼体(赤子)を捕らえておとりにすればいくらでも釣れる」と。赤子を奪われた母親は、危険を冒してでも我が子を救おうとするだろう。私たちはそれを科学的に見つめるのだろうか。
人間の愛の中には、それが異性への恋愛だったにしても、それを「生殖本能に過ぎない」と斬って棄てることができない部分がある。私たちが愛する人を「美しい」と言った時に、それは「愛」である。では、この中から生物学的な物をとりのぞいて、「美」だけを抽出できないだろうか。その視点が芸術である。そしてそれは、その先には、私たちがたどり着き得ない「理想」「永遠」がある。それらは、「愛」同様、私たち人間の本質的指向性なので、その方向に進んで裏切られることはない。それは個人においてはもちろんのこと、社会全体においてもそうである。私達はそれを目指すことで、調和と平和に近づくことができるのだ。
今世界では、言いがかりや論破によって、簡単に破壊的行為に屈する人が多い。各国の法制度は決して完璧ではないし、SDGsやLGBTQ といった人間の本来の生き方にむしろ反する規範ができつつある。私達は肉を食べないと生存できない肉体を持って生まれてきているし、地球にとって究極的に害なのは人類であるということは誰もがわかるところであろう。これらの判断は、みな自然科学を確信した一部の(おそらくあまり科学者的ではない)人間がその論理をそのまま自分と等身大の人間に当てはめてしまったことから起きている。これは主に教育の問題である。
私達が学問を学び続けるのは、数字や言葉を通じて学ぶことで、数字や言葉で学べないこと習得するためだ。ここにおいて「数字的データを見ましょう」「客観的に俯瞰しましょう」ということの正しさと、「それってあなたの感想ですよね」「はい、論破」といった言い方とには、まったくの質の違いがあることに人は気がつかなければいけない。前者は、科学的態度であるばかりでなく、芸術哲学の立場でもある。後者は、数字と言語によって限定された理論と知識だけで、世界が成立しているかのような弁である。(つまり頭が固いのである。)社会的に成功するだけならこれで十分である。しかし、本当に世界を人間を良くしようと考えるとき、まったくの無力であり無責任である。幸か不幸か、人類はこうしたことを論じれられる段にまで至っている。私達はいつまで「それって人それぞれだよね」とか「人類みな同じ」といった台詞に幻惑され、思考停止状態に陥り続けるのか。これを越えてゆくのが芸術哲学である。
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