東洋・西洋占星学研究の第一人者 上田きょうやの公式サイトです。

上田きょうや公式サイト
上田きょうや
上田きょうや
「印象派 モネからアメリカへ ウスター美術館所蔵」で語る占星学 
ウースター美術館展の絵画を、占星学を通して鑑賞しましょう。
絵画作品と画家の説明を占星学の視点から、上田享矢がいたします。
星座の感性を通した絵画の見方を紹介します。
(占星学的解説書と音声ガイド・ファイルつき)

日時:2024年
1:3月10日(日)14:00~(予約必須)
2:3月14日(木)14:00~
3:3月17日(日)14:00~(予約必須)
(12時50分頃から事前解説、14:00~15:30鑑賞、16:00~お茶。)

集合場所:東京都美術館 正面入り口前
参加費:3000円(解説書・音声ガイド代込み)+入館料(各自購入)

東京都美術館 
〒110-0007 東京都台東区上野公園8-36
JR上野駅「公園改札」より徒歩7分
東京メトロ銀座線・日比谷線上野駅「7番出口」より徒歩10分
京成電鉄京成上野駅より徒歩10分

参加費3000円(当日精算)+チケット代2200円(各自14:00指定でお買い求めください)
(日時指定予約制)https://worcester2024.jp/ticket/

初めての方はまずkyoyauedahybrid@outlook. jp に連絡を下さい。
その上で、美術展チケットを買った旨の連絡を再度頂いて、初めて申し込み完了となります。

追加日程も考慮中です。



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第二章 芸術哲学について1/4 
第二章 芸術哲学について

【芸術における良い作品と良くない作品】
 「芸術」というと、現代の私たちはしばしば「主観なのだから芸術作品に良いとか悪いとかはない」という言い方をする。しかしそれは、芸術作品における「感動」を構成する「感情」と「感覚」を混同しているのではなかろうか。これらは別のものである。
 人は自分の好きな作品を批判されそうな兆しがあると、「主観なのだから芸術作品に良いとか悪いとかはない」と反論する。それは自分の感じたものに自信をもてない存在の劣等感である。私たちは自明のものにはそのようには反応しない。たとえば、とても美味しいお菓子を食べているときに「このお菓子は美味しくない」と言われても人は逆上しない。「・・・そうか?俺は好きだけど。」で済んでしまうはずだ。そして、「芸術は良いも悪いもない」と強硬に主張する人に限って普段はその芸術を愛してはいない。日頃はそれほど集中もせずに「娯楽・気晴らし」として見たり聴いたりしているだけである。しかし、それゆえに、即興の芸術論の場では声を大にして主張するのである。つまり、自分が確信が定かでない分野について、「人間平等」という別の価値観から、自分の劣等感を隠すために、自分の守備範囲外の「芸術」という分野を批判しようとしているだけである。(野球を好きでない人間は、野球の本質について語るべきではない。)
 芸術作品が人間のなんらかの精神活動の技術的具現化である以上、良いものと劣るものは存在する。

【「人はそれぞれ」と断じる愚かさについて】
 芸術において、「人それぞれ」という言葉を用いて、対象の価値を決めるやりとりそのものを否定する態度がある。しかし、人間は何が正しくて何が間違っているのかという真理を追求してゆく生き物である。それ自体が人間の定義であるといってもよい。それが芸術作品鑑賞にも適用されるということである。適用されるということは、大学に美学等の教科があるということであり、芸術家の立場が、かつてのような河原乞食的身分ではないことを意味する。
 「絶対的な真理などなく真理とは相対的である」という相対主義哲学に基づく芸術観は、現代人からは安易に共感されやすい。「これこそが絶対的真理だ!」と主張するよりも、「人それぞれだよね」と言う方が大人で、柔軟で視野の広い印象を与えるからだ。これは現代の高度に発達した社会の人間関係における処世術としても「賢い」印象を与える。現代の社会科学的原理に基づいた動きを考慮しているという点で「頭がいい」という印象を与えるのである。人とむやみな衝突をせずに事を有利に進めることは、考えることを拒絶している多くの人々に支持されやすい。また、芸術に関しては、わかりにくい作品に対してのむやみな劣等感を刺激しなくてすむ。人がこの問題に触れ、否定に走るのを日常的にみるとき、この現代でも感情抜きで語れる人は少ないものだなと実感させられるのだ。
 この相対主義は、現実の世の中ではなおさら「人それぞれで、絶対的な真理なんかないんだから、そんなもの目指さなくてもいい」「何事も絶対的に決められないんだから、適当でいいんじゃない?」と、いう思考停止に陥る。特に民主主義国家の場合には致命的である。考えない「多数決」は無責任な衆愚政治になるからだ。これは、人間一人一人が別個に意思を持つ存在である限り、避けることはできず、政治や社会だけではなく、美意識などの人間の(一見)内面の問題のように感じられるものにも適用する。というか、それが「探究芸術」である。
 紀元前400年ごろ、こうした相対主義の祖であるプロタゴラスの思想に対して、ソクラテスは「人間は絶対的な価値・真理を追究していく存在である」と主張した。そして、無知の自覚こそが真理への情熱を呼び起こすとした。これが「無知の知」である。
 芸術作品、特に探究芸術の立場では、人は常に「何も知らない」状態におかれる。それは芸術作品が言葉や数字による一切の理解を拒絶している現実から始まるからだ。私たちが言葉を失うのは、「愛」と「美」の前においてのみだ。私たちは芸術に感動する時、すべてを自分流に一から集中し考え直さなければならない。そこに人類に与えられた、最も高度な思考がある。人間が常に作り出してきた文化や芸術による「美」は、私たち人間一人一人の個体における「愛」から、本能と欲望を切り離す。
 この意味では、数字の計算が速いこと、人への心遣いにおいて器用であること、絵画作品の文化的時代考証をするだけで理解した気持ちになること等が、いかに人間の頭脳の利用において、お粗末なことかがわかる。

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探究芸術と共感芸術4/4 

【映画評論家の良心】
 良心的な、分析力のある映画評論家の多くが共通して言う言い方がある。それは「映画は最高の娯楽作品だ」という言い方である。これは本当に対象の本質を捉えた謙虚かつ聡明な発言である。映画は、現実自体を素材に、視覚と聴覚の両方を媒体とする、かなり具象的な表現作品形態である。その感動が芸術であるかということは個々の体験によるのだが、映画評論家が「映画は芸術だ」と乱暴な言い方をしないところは、本当に本質を捉えているのではないか。
 また、監督やその他の映画製作者は、「音楽にはかなわない」という言い方をする。それは聴覚という単一の媒体しか使わない表現形態が本質的に持つ抽象性こそが、その形式と象徴の力によって莫大な情報量をもたらす、その力になかなか対抗はできないからである。
 映画の素晴らしさは具体的であるがゆえに、有機的である。時代や鑑賞者個人の体験や成長などとも連関しやすい。これらの価値を本当に見据えたとき、映画評論家は「最高の娯楽作品だ」という言葉になるのである。

【歌がうまいということ】
 私はビートルズのコピー・バンドは日本人が一番だと思っている。日本人はビートルズのように白人にもなれないし、英語の発音もままならないかもしれない。しかし、それでもポール・マッカートニーは自分の誕生日に日本人のビートルズ・コピー・バンド、パロッツを呼んだ。
 コピー・バンドは単に物真似をするだけなら日本人は不利だろう。しかし、私たちもポールも、「ね、似てるでしょ」と思いたいわけではない。ビートルズが目指していた音楽を再現してほしいのだ。それは、当時のビートルズ本人でさえもなにか自分達の演奏と歌声の先にあるなにかを目指していたのであり、自分達が単にアイドル的に自己表現していたわけではない。それはアイドルであって芸術家の姿勢ではないからだ。日本人演奏家は基本的にこの姿勢を本能的にとる。つまり芸術作品に対するリスペクトが先行する。毎月のようにアップされるインターネット上のビートルズのカバー演奏の動画をチェックする度に日本人以外の多くの「プロ・ビートルズ・カバー・バンド」がステージ上でいかにいい加減な演奏をしているかには恐れ入る。それが英米人だったりするとさらに、見かけを似せようとしすぎて、ある種の照れが加わる。私たちはビートルズ音楽を、生の機材で再体験をしたいのであって、物真似演芸を見たいのではない。体験したいビートルズと同じ視線でビートルズの追い求めていた音を真摯に追うこと、これしか真の芸術再現に近づく方法はない。
 先日、テレビでアマチュアによるカラオケ選手権大会を見た。数時間にわたる長大なものだったが、たまたま、感動させるものが何もなかった。(感動させるものがある回もちろんあるだろう。)彼らは大変歌がうまく人間としても魅力的にみえた。しかし、彼らは、歌っている歌手に似せようとしているのであって、その歌手の目指そうとしているものを共に追っているわけではない。であるから、どこまでいっても魅力的ではないのだ。
 ジョン・レノンは単にビブラート等の技術でいえば一番うまい歌手ではないかもしれない。しかし、音楽家の本能として自分の狙う音楽性をはずすことはない。その精度とダイナミズムにおいて上回る歌手は滅多にいない。音程が正確かビブラートが利いているかといった基準だけでは、物真似とカラオケ以上にはならないことが多いのである。

【21世紀日本文化の役割】
 2024年初頭、山崎貴監督による映画「ゴジラ-1」が世界中で空前のヒットとなった。これは本来なら1954年の初代ゴジラの発表の時点で世界が理解しなければいけなかったものを、その後の日本の映画文化の下降も含め、理解ができるようになるまでこれだけ時間がかかったという見方もできる。何はともあれ私は本作品を劇場でみてようやく世界がわかる時が来たと予感した。各国の国民が、戦争のPTSD を理解できるようになりそこに共感できるようになったということも大きいが、それ以上に「戦後の状況を扱いながらそれをどのような現実や一方的価値観に着地させなかった」ということが重要なのである。世界はそれによって、共感芸術の究極の姿をみたのであった。
 たしかに、既にアニメ作品でもそのような表現を日本は発信し続けていた。しかし、それはスイスにおける「アルプスの少女ハイジ」などというように、鑑賞者はまさか日本人が製作しているとは思っていなかった。(その水準の認識である。)そしてディズニーは「ジャングル大帝」をパクり「ライオンキング」を作って平気であった。(「ゴジラ-1」でもそれができるのだろうか?作品の真の精神性をパクるというのはどうやるのだろうか。)
 音楽において「ウィー・アー・ザ・ワールド」のように世界を繋ぐのは容易であるように見えた。しかしそれは現実の効力としてどれだけのものだっただろうか。それは探究芸術としての音楽が各個人に強いる集中力に万人が必ずしも対応できず、また、共感芸術としては抽象的体験にとどまり、人の認識を変えるところまではなかなか行きにくいからである。共感芸術としての映画の場合そのような問題は少ない。その代わりに、具体性ゆえに鑑賞者の立ち位置や環境の問題が生じがちであった。少なくとも日本文化が目指すところとしては「ゴジラ-1」でこの問題は払拭されている。共感するということはユニバーサルなものであるはずだという夢が一つかなったのである。
 では、現実にこれからどうなるのだろうか。かつて世界ではじめて人種差別撤廃条約を提案したのは日本だ。それを潰したのは英米だった。では「ゴジラ-1」における再生の物語には、どのような逆風が待ち受けているのだろうか。しかし、日本は無邪気にこれからもこうした作品を作り続けるだろう。そしてそれは世界を変えてゆくだろう。世界はそれに耐えられるだろうか。耐えて変革していただかなくては困るのだが、それによって人類は多少はましなステージに上がるだろう。そのときには、BLMのような力による訴えや、「世界に平和を」といったお題目がなされずとも、一歩前進できるのではないだろうか。

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探究芸術と共感芸術3/4 
【ジブリ作品の偉大さ】
 ジブリ作品を代表とする宮崎駿監督作品は、その高品質で世界から愛され、日本の誇りでもある。しかし、中でも今一度注目して頂きたいのは宮崎監督の強烈な作品への形式感である。宮崎氏は、知る限りでは戦後の反原発主義者であり、その思想には批判的な人は多い。原発の良し悪しの問題ではなく、この世代の人々に特有の非合理的なまでの反体制的態度が、垣間見られるからである。しかし、宮崎氏が偉大であったのは、そのような主張を持ちながら、自身の映像作品にはまったく反映させなかったことである。(あえてあげるなら1995年CHAGE and ASKAのプロモーションビデオ「On Your Mark」に垣間見られるが、これも現在ではマニアの楽しい分析ネタとなっている。)「風の谷のナウシカ」であってもたしかに環境破壊を訴える映画であることには違いないかもしれない。しかし、彼の創作者としての美意識・良心には一点の曇りもない。その時代や現実から隔離させた晴朗さが私の胸を打つのである。
 このように考えてゆくと、ロック音楽においてたとえばエリック・クラプトンの人気作品「ティアーズ・イン・ヘヴン」が彼の亡き息子を悼む歌だとかという分析が非常に危ういものを含んでいるということに気がつくべきであろう。

【第9交響曲】
 ベートーヴェン交響曲第9番のテーマは、「探求芸術から共感芸術へ」である。
 私はベートーヴェンの最後の交響曲第9番「合唱」は大好きである。特に好きなのは第一楽章で、晩年のベートーヴェンのたどり着いたベートーヴェンらしさである。それはベートーヴェンの探究芸術的な側面の頂点のひとつである。その一方で一般には第4楽章が人気である。年末になると、ときにはこの楽章だけを取り上げて、大衆参加の合唱コンサートが催される。これは人々の「感情の器」になりやすく、その意味で、共感芸術であるからだ。年末に第9を歌うという風習に、欧米の人々は驚くようだが、日本人はこうして探究芸術としてのクラシック作品を、最高度のリスペクトを込めて、共感芸術化したのである。
 (また、ここに芸術史におけるパラドックスが起きたということも付記しておきたい。というのも、一般に「ベートーヴェンの第9によってロマン派が開かれた」という言い方がされるが実際には、第9によって探究芸術から共感芸術への変容がなぞらえられたことで、音楽史は、宮廷音楽のような共感芸術から、ロマン派の個々の芸術家による探究芸術への道を歩んでいったのである。すなわち、いずれにしても健全だった十九世紀では、個々の作品の芸術的深化は進んだのである。しかし、
その音楽史的な流れとは関係なく、今も第9は演奏される度に、探究芸術体験を共感芸術体験へと導く働きをしている。)

【ビートルズの業績】
 ベートーヴェンの第9の事例と対照的な現象が、ビートルズのスタジオ・ミュージシャン化である。ビートルズは当時全世界で空前絶後の人気を得て、ビルボード全米第1位から第5位までを独占した。しかし、その7枚目のアルバム『リボルバー』頃から一切のコンサート活動を意識的にやめ、実験的で自己探究型の作品群を生み出すことになる。これは先のベートーヴェンの場合と対照的な現象で、まさに「共感芸術から探求芸術へ」のストレートな活動であった。第9の場合も同様だがこれらはベートーヴェンやビートルズの高い意識によってのみ達成されたものではない。第9の場合は現代に至るまでの日本の欧米文化吸収のわかりやすい例であり、ビートルズの場合はその後も「自己の芸術を極める」という姿勢を取る若いミュージシャンは多いが、彼らは必ずしもこれらにあてはまっていない。ビートルズは、それまで大衆音楽の位置に過ぎなかったロック音楽を普遍的な芸術の位置にまで引き上げた点でもまさに革命であった。
 一方、現在のロック・コンサートは一般にどうであろう。大抵の場合、コンサートホールの音は大きすぎ響きすぎて、決して冷静な鑑賞に耐えるものではないという向きもあろう。ファイルやCDで聴いたものをより共感芸術的に確認するために集うのである。

【「自己の音楽性を追求する」アーチスト】
 このような意識の流れを経て、現在では多くのミュージシャンが「自己の音楽性を追求する」という姿勢を取っている。その人たちは自分の世界こだわり豪華な衣装や音楽的仕掛けをもってステージ上などで「私の芸術世界」を再現する。ファンは、それを「芸術を再現するために努力をしている教祖様」であるかのように心酔している。しかし、私はこうした表現は探究芸術の殻を被った共感芸術にすぎないと感じられる。やたらと熱唱する歌手も同様である。好きであれば構わないのだが、そこに「自己追求」という薄っぺらな主題が盛り込まれると鼻白むのだ。その追求は誰のため、何のためなのだろうか。それはそんなにカッコいいと感じられるのだろうか。
 情熱的な歌唱で人を巻き込む歌手は、共感芸術としての魅力を持つ。それは一期一会の貴重な体験かもしれない。それは共感芸術の一つのかたちであるが、しかし、それは作品に集中して鑑賞者が芸術を探究しているわけではない。アーチストが自己の探究的姿勢を打ち出すのは安っぽい自己宣伝にすぎない。ベートーヴェンの音楽でも彼の自己追求の姿に価値があるわけではない。それは伝記的次元の話である。時には彼の自己探究的なシリアスさを鑑賞者が自己の境遇となぞらえることはあるかもしれない。それは第五交響曲などにおいて多発する。しかし、それらもすべて、まずは鑑賞者が深くベートーヴェンの作品自体と対峙しその内面世界を自分なりに追い求めるという行為があってこそである。実質のない自己探求などに付き合う人はいない。しかし、現代日本では、共感芸術文化ゆえに、実質よりも自己探究の姿自体に酔いしれている人もいるようである。それは一種の讃美歌のようである。努力と友情を歌詞にすれば売れる歌も同様かもしれない。であれば、「はしれ、ちょうとっきゅう」といった童謡の方がはるかに純粋な探究音楽だということになる。

(続く)











 


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第177回ハイブリッド占星学講座 あなたの命式の守護神をみる 第4回 甲編4 

第177回ハイブリッド占星学講座 あなたの命式の守護神をみる 第4回 甲編4

 第4週めの昼間の講座では、あなたの命式の守護神を解説します。(対応テキストは「守護神法」)
甲酉より。「僧道の命」「木火通明」なども学びます。
甲は、自然界における樹木を表します。この樹木の質をもって生まれた人の運気はどうなるのでしょう?甲は春において最強となります。
また、今年の干でもあります。
前回、予想以上に解説が多く充実しました。そのため、甲だけでも全部で三回くらいは、、、といいましたが、少なくとも6回くらいになりそうです。
途中からでも、問題なく習得できます。

西洋占星学の概念も時々絡みます。
東洋の五行と干支をその根本から習得したい人にはよい機会です。
あなたやご家族の五行の自然界での動きを探ってみませんか?
 テキストをお求めの方は連絡ください。(3500円)

日時 2月24日(土) 14:40-16:40
参加費 2,100円 (当日受講時に)
場所 幸ケ谷集会所2階和室
講師 上田きょうや氏
募集人数 10名

* 直接会場にいくか、または講師とは先に横浜駅中央東口改札外ルミネエレベーター脇/お花屋さん前/14時10分で待ち合わせることもできます。

希望される方は、講座参加申込時に「横浜駅待ち合わせ希望」とご連絡ください。
Email: kyoyaueda0527@gmail.com






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